第五話 カステラ試し
菅五郎左衛門の屋敷を辞去したあと、安左衛門は今度は直属上司であるところの御膳番・水野勘之丞の邸宅に来ていた。御家老の立派なお屋敷には遠く及ばないとはいえ、それでも庭と離れの邸のついたちゃんとした武家屋敷だ。ちなみに安左衛門が隠居の父と暮らしているのは武家長屋と呼ばれる共同住宅である。
「いや、まったくもってえらいことになった」
「然様でございますな」
「お前にはとんでもない苦労をかけることになるな」
「それは良いのですが一つ、お伺いしたく。なぜわたくしが選ばれたのでしょうか」
「わが藩の包丁侍の中で、多少なりと菓子商に縁があったのはお前だけだからだ」
「わたくしの祖父は神田でほそぼそと大福餅などを売っておっただけの、小商いの町人に過ぎませんが……」
「長崎のかすていら売りの孫がわしの部下のうちに居ったならばそいつを推挙したろうが、そんなものはおらんのだからしょうがあるまい」
「は」
「その代わり、協力は惜しまん。まず、この任のために奥平様から特別な予算が組まれておる。これはほとんどお前の自由になるものと思ってよい。それから、人を使いたくばわしに言え。何人か見繕って部下を付けよう。その他に何か希望はあるか」
「は。それならば。正直申しまして、わたくしの長屋住まいでは、かすていらなりたるとなりの研究をするには手狭でございます」
「よし。ここの離れをまるごと貸そう。台所もある。この任務の続くうちはそこで起居し、勤めに当たるがよい」
「有難う御座います」
「包丁侍としての城勤めは、完全に免じてしまっては都合も悪かろうが、週に一度も顔を出せばそれでよいということにしよう」
「は」
というわけで、安左衛門はその日のうちに、勘之丞家の離れに居を移した。荷物も大八車で運びこんだ。そして夜になった。安左衛門は白無垢を纏い、井戸で水垢離をして身を清め、身体を拭いて着替えて、離れの居間に座った。
「……」
かすていらの包みを開ける。桐の白い木箱が入っており、『井筒屋』と焼き印が押してあった。井筒屋というのは、松山城の西、古町という城下にある上菓子屋である。安左衛門も知っているが、城下でも屈指の高級店であるから入ったことはほとんどない。かすていらも商っていたのか。
「これが、かすていらか。見るのも二十年ぶりだ」
箱の中のかすていらは、さらに油紙に包まれていた。その包みを開くと、中のかすていらは一棹、ひとつに繋がった形状になっている。四角く、そして横に長い。取り出して、とりあえず縦に一切れ、切ってみた。上面と底面の焦げ茶の焼き色と、そして鬱金色の肌目が実に美しく、高級感を醸し出している。その一切れを皿に乗せ、箸を近づける。
「おお……」
美味であった。甘露であった。柔く、そしてしっとりとした弾力があった。しかしその味覚の官能を愉しんでおる余裕などは無論ない。全身全霊をかけて、かすていらの味をこの舌に覚えさせねばならぬ。そして、この味を再現できるようにせねばならぬのだ。それだけでもおおごとだというのに、しかもそれは通過地点に過ぎない。
筆頭家老奥平藤左衛門はポルトガル船上の『たると』の現物を見ていないわけだが、もちろん、定行からそれについての話を聞かされた時点で、本人から聞き出し得る限りの話は聞き出している。その内容は既に安左衛門にも知らされているのだが、それはかくの如き次第であった。
・たると、かすていらに似たる甘味也
・たると、まきもの也
・たると、黄色く酸くまた甘露なる何者かを巻き込んだるもの也
これだけである。これだけの情報をもとに、まったく未知の菓子を再現し、藩主に献じなければならぬ。出来なければ上司ふたりばかりを巻き込んで切腹である。かすていらを一切れ食べ終えて、安左衛門は今更ながら事態の重大さに戦慄した。自分の身体が宙に浮き、何かこの世のものではなくなったような気がする。おれは江戸の町人あがりの侍で、いくさというものは知らぬ。会ったこともない兄ふたりは戦場で死んだらしいが、おれは戦争を知らぬ世代の侍である。なるほど包丁侍の御役目だとて日頃から命を懸けて邁進しているというつもりはあったのだが、いざ自分の命が現実的に危うきに及ぶというのはかくも浮世を離れた心地のするものか、と安左衛門は思った。
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