第六話 喜代

 安左衛門がかすていらの残りを前に難しい顔をしていると、離れの入口からこちらを呼ばわる女の声がした。


「安左衛門さま。お茶をお持ちしました」

「これは、喜代きよどの。どうぞ、お上がりください」


 喜代というのはこの水野家、つまり勘之丞の末の娘で、数えの十五になる。安左衛門とは以前から面識があり、もちろん安左衛門が今日の今日ここに越してきたことも把握している。


「そちらは、かすていらで御座いますか」

「然様にござるが……えーと、これは」


 安左衛門は迷った。いちおう、お役目上の秘密というものがある。むやみに自分が負っている任務の話を触れて回るわけにもいくまい。しかし。自分が、真っ青な顔をしてひとりでかすていらを食っていることの事情を、なんと説明したものか。


「ああ、大丈夫ですよ。父から、事の次第は聞かされておりますので」

「そうでしたか」

「何か、あたしにも協力できることがあれば、何でも仰ってください。家を挙げて協力せよと、父より申し付けられております」

「それはかたじけない」


 安左衛門は少しだけ考え、こう切り出した。


「黄色く、酸っぱく、されど食するに適したもの。喜代どのは、こう問われたら何を思い浮かべられますでしょう」


 喜代は少しばかりも考えるでなく、即答した。


「柚子でしょうか」


 安左衛門はふむ、と思った。


「柚子。確かに、黄色く、酸いですな」


 定行がポルトガル船の上で口にした『何か』は、黄色く酸っぱくまた甘露であったとのことだが、砂糖を加えさえすればどんなものでも甘くはなるのだから、最後の段は必ずしも問題ではなかった。柚子、か。ふむ。


「しかし……季節が違う。今の季節の柚子は、青う御座る。黄色い柚子は、冬場に出回ります」

「そうですね。柚子湯と言えば冬至に入るものですし」


 ゆずは樹木になる果実である。初夏に花を咲かせ、夏になると実がつく。この時点では熟しておらず青いのだが、これも収穫して用いることがある。例えば、柚子こしょうと呼ばれる調味料には青柚子を使う。その他、素麺であるとか、冷ややっこであるとか、用いることがあるがいずれも酸味を活かして味付けに用いるのである。

 樹上のゆずの実はやがて黄色く熟する。これは晩秋から初冬にかけて収穫される。青柚子においては極めて強い酸味は多少おだやかになり、また果汁もより多く絞ることができる。青柚子よりも用途は多様である。和菓子に用いる例もあり、代表的なものとしては「柚餅子ゆべし」というのが知られている。


「それじゃ、あたしはこのへんで」

「はい。お茶、御馳走様でした」

「険しい御勤めと聞いております。御精勤の程、陰ながら応援しております」


 と言って、喜代は本邸に戻って行った。


「柚子か。四国の名産ではあるが」


 柚子の日本最大の産地は、この当時から令和の世に至るまで、土佐(高知県)である。伊予から見れば隣国に当たる。伊予にももちろん柚子の木ぐらい植わってはいるが。


「まあいい。詳しいことは、のちのちに考えよう。まずは、かすていらの製法を極めるところからだ」


 そう、たるとがかすていらに似たものであるというのなら、かすていらが作れなければ話にならない。かくして、安左衛門の挑戦は始まった。

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