正保編
弐
第三話 水野安左衛門
伊予松山藩
「藩主様が国許へお戻りになられた」
「は」
それはもちろん言われずとも知っている。自分だって松山の侍の端くれなのであるからして。一大水軍を率いて長崎まで行って、
「ついては、そのほうに特別の務めが仰せつけられる」
「は」
と、身分と立場があるので返事だけはしてみたが、安左衛門は不審の念を隠せない。自分は二人扶持九石取の料理人、いわゆる包丁侍である。料理を作る以外の芸はない。藩主様の御口に入る御膳を作っているのだから栄誉ある立場ではあるのだが、それは御膳番預かりに連なる多くの包丁侍たち皆同じことである。
不審なことはまだあった。そもそも、菅五郎左衛門は安左衛門の直属の上司ではなく、その屋敷に呼ばれたのは初めてだ。安左衛門の直属の上司に当たるのは御膳番・水野
「一つ尋ねるが、そなた、『たると』というものを知っておるか?」
「は。……まったく存じませぬ」
そんなもの聞いたこともないが、存じていないとまずかっただろうか。
「そうであろうな。何しろ、このわしも知らんのだ」
「は」
いったい何を言い出すんだ、この御家老は。
「たるとは無理でもな、『かすていら』ならば知っておろう?」
「は。それは存じております。南蛮菓子でございますな」
カステイラが日本にもたらされたのは十六世紀のことである。既にそれなりに知名度のあるものとなっている。
「うむ。食したことはあるか?」
「……は。一度だけ御座います。しかし、幼き日のことにて」
「その仔細を話してみよ」
「拙者はその日、はやりの風邪を得て熱を出しまして……母が、特別に買い与えてくれたのです」
この時代のかすていらは極めて高価で、高級品である。一般庶民や、下級の武士如きが、普段から口にできるようなものではなかった。
「成程の。そなたの母というのは、菓子屋の娘であったな」
「は。母の実家は江戸市中で菓子屋を営んでおりました」
「よし」
ここまで話が続いても、安左衛門にはそれの何が良いのかさっぱり分からない。
「実はな。これから伝えるのは、わしからの命令ではない。
「なんと」
奥平
「実はここに『かすていら』がひと包みある。これはお前にやる」
「御下賜に御座いますか」
「いや。お前には、かすていらを研究してもらわねばならんのだ。それに使え」
「なるほど。ということは、つまり。拙者に、殿の召し上がるかすていらを作るようにと、そのような御下命でございましょうか」
「それがな。そうではないから困っておるのだ。そのくらいの話であってくれたら、こんなに困ることも無かったのだが」
「……は」
話がまったく見えない。
「水野安左衛門」
「はっ」
「そなたに対する命令というのは、そなたに『たると』を作ってもらわなければならない、ということだ」
「ははっ!」
安左衛門は武士であるので、返事だけは景気よくせねばならなかった。だが、内心ではこれはえらいことになったと思っている。
「では、恐れながら伺いたき儀が御座います」
「腹蔵なく申してみよ」
「奥平様にては、たるとなるものをご存知なのでしょうか」
「それが、奥平様も知らんそうなのだ」
「ということは……」
安左衛門は既に顔面蒼白であった。
「そう。ここまで言えば分かると思うが、たるとが何なのか知っておるのはな、ひとりだけだ。殿だけが、殿たったおひとりだけが、長崎で、葡萄牙船の上で、その『たると』なるものを召し上がったそうなのだ。そのとき、傍にいたのは葡萄牙の人間のほかは、
「は……」
なんということだ。
「その『たると』を、殿はいたく気に入られたらしい。それで、それをどうしてももう一度食べてみたい、と、奥平様に申されたそうなのだ」
とんでもないことだ。
「なればもし……その儀、叶わぬ時は」
「そうよ。こうとなれば、わしもそなたと一蓮托生。その南蛮の、未知なる『たると』なるもの、みごと作りおおせねば、そなただけではなくわしも、それからそこの勘之丞も、おのれの腹で始末を付けねばならぬであろうな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます