第6話 漱石の見合い

 見合いの相手はこの土地の人間、つまりは松山生まれの娘さんであった。親は退役軍人だという。当時は松山城のふもとに歩兵二十二連隊が置かれていたので、市内に多くの軍人が暮らしていたのである。多くの軍人が暮らしていれば、当然その中には退役軍人もいる。


 さて、金之助はこのとき二十八歳、身を固めることはやぶさかではない。だが、松山の娘と結婚してはどうかというのは、つまるところ彼に松山に永住することを勧める意図を含んだものであろう。


「嫁さんは悪くないが、こんな田舎で終の棲家というのは如何なものか」


 というのが金之助の正直な思いであった。しかし、紹介人の顔を立てなければならない都合上、とりあえず会うだけは会うことにした。


「ごめんください。夏目ですが」


 浅田参事官の家を訪れて、応接間に通される。しばらく待っていると、ひとりの若い女が茶の支度をして入ってきた。浅田家の下女かなと思って見ていたら自分も腰を下ろし、挨拶をして、やたらに馴れ馴れしい口を利く。金之助はようやく気付いたが、この女が見合いの相手なのであった。


「この菓子は、松山のものでしょうか。東京では見たことがないが」


 茶菓子として出されていたものは、たるとではなかった。当たり前だが、松山の菓子という菓子が全部たるとなわけではない。他の名物だってちゃんとある。


「ええそうですのよ。これは『しょうゆ餅』というものです。確かに東京にはないかもしれませんわね。あはは」


 何があははだ、下劣で慎みの無い女だ、と金之助は思う。ちなみに、しょうゆ餅というのは、伝承によれば松平定行の父、久松定勝の時代からあったもので、定行公入府の際に松山に持ち込まれたものだという。だが、金之助がしょうゆ餅の由来を尋ねてみても、娘はそんな話まで知りはしなかった。さあ分かりません、と言って、何が面白いんだかげらげらとまた笑う。


「如何でしたか、さっきのお嬢さんは」


 見合いを終えて、金之助はげっそりしていた。この場で断るのも角が立つから適当な返事をして、後日、断りの手紙を参事官のところへ送って済ませた。このときのことを、彼は正岡子規宛の手紙に記している。


「この土地で生まれた軍人の娘を嫁に貰わないか、と人に勧められて、貰うべきか貰わざるべきか考えたんだが、ちょっとお血筋のほうがよろしくないようなので、御免被ったよ」


 その子規はというと、この頃ようやく日本に戻ってきていて、帰還船は神戸に入港したのだがそこからどこへも出られず、県立神戸病院に入院していた。彼は船旅中に血を吐いたのである。この頃、子規の患った肺結核は既に深くその体を蝕んでいた。その上、無謀な従軍、大陸行きのために、その無理が祟って、一時は医者から危篤を告げられるほどの有様であった。漱石が送ってきた例の手紙を、子規は病床で受け取った。


「帰国してきたというのは目出度いが、入院したと聞いて肝を冷やした。こっちは松山の愛松亭というところにいる。生徒たちとはまあうまくやっていて、あっけらかんと暮らしているよ」云々。

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