第5話 安久庵

 金之助の日々はそれなりに忙しかった。月給八十円のな立場であるからクラス担任も宿直勤務も免ぜられているのだが、それにしたって教師は教師である。この頃、勤務先の中学校の教員たちの間で政治的な争いがあり、「校長派」の学閥に属する人間たちが次々と更迭・左遷の憂き目を見ていた。そのへんの事情は、金之助にとっても他人事とすましていられることではなかった。智に働けば角が立ち、情に棹させば流されて、意地を通せば窮屈で、とかくに人の世は住みにくいという次第なのである。


 さて、東京から着てきた背広のために城戸屋で舐められる経験をしたことが忘れられなかった金之助は、月給八十円に相応の新しい服を誂えることにした。松山の繁華街は湊町といい、松山の停車場から東に延びている。もともと江戸時代から盛り場だったところだが、停車場が出来てからは一層のこと栄えていた。東京育ちであることを鼻にかける金之助はここを田舎町だと思っているが、松山は少なくとも四国ではいちばんの街である。そこの盛り場であるのだから、もちろん明治御一新の世の中、洋品店の一軒くらいある。


「いらっしゃいませ」


 というわけで洋品店で採寸をしてもらい、紺のダブルの背広と赤皮の靴と山高帽を買って、それからフロックコートを注文した。


「フロックコートの仕上がりですが、二ヶ月ほどお待ち頂く必要がありますかと」

「そんなにかかるのか」

「ええ。注文が立て込んでおりましてね」


 腰かけに座って店に置いてあった新聞を読んでいると、昨年の夏に始まった日清戦争の終結が報じられていた。


「ああ。いくさは終わったのか」

「どうやら、そのようでございますな。日本の大勝利のようで」

「実は、友人が従軍記者として大陸に渡っていてね。彼は松山の出身なのだが」


 この友人と言うのが、漱石が三年前に松山に来たとき一緒だったというその友人のことである。


「それはそれは。お手柄をお立てになったのですかな」

「いや……それはどうだろうな。彼はまだ中国に着くか着かないかくらいの頃のはずだ。何もできないうちに戦争が終わってしまったんじゃないかと思う。だけどね、それでよかったと僕は思うんだ。彼は、何しろ肺を病んでいて、身体が弱くてね。みんなその体で従軍記者なんて無茶だって言って、止めたんだが本人がどうしても行くんだと言って聞かなくてな」

「松山の、どちらの方です?」

正岡まさおかくんと言う。俳句が上の得意でね。号は子規しきと名乗っているよ」


 そうなのである。現代にその名を知られる俳人、正岡子規と、夏目漱石は大親友の間柄であった。


「では、フロックコートが出来上がりましたら、お便りを差し上げますので。ありがとうございました」


 洋品店を出て少し商店街を歩いていくと、菓子屋があった。安久庵あんきゅうあん、という看板が出ている。金之助はちょっと覗いてみることにした。なかなかに古色蒼然たる、立派なたたずまいの老舗である。


「たるとは置いてあるかい」

「はい、もちろんでございます」

「じゃあ、一棹包んでくれ。自宅用だ」

「かしこまりました」


 下宿に帰ってかみさんに茶を淹れさせて、安久庵のたるとを切り分けさせて、食する。美味である。箱の中に由緒書きが入っていて、正保年間創業、と書いてあった。


「また正保か。しかし、じゃあこんな田舎で二百何十年も菓子屋をやっているわけだ。えらい老舗ということだな」


 たるとの歴史についても書いてあった。定行公が南蛮船の上で出会ったポルトガルの洋菓子を、藩士に再現させることを試み……とある。どうやら歴史の中村先生のそれに似た説を採っているようである。


「夏目の先生、お客さんが見えられましたよ」

「どちらの方だい」

「県庁の参事官の、浅田あさださまだそうです」

「ああ、あの方か。お通ししてくれ。たるともお出しして」


 浅田知定ともさだというのは、そもそも松山に金之助を招聘した張本人である。金之助が八十円の高給を食んでおられるのもこの人物のおかげであるから、無下に扱うわけにはいかなかった。


「夏目さん、松山の気風はどうかね。水は合ったか?」

「はぁ、それはどうでしょう。勤務先では特に大禍もなく過ごしておりますが」

「それは重畳。実は今日は、君に見合いの話を持ってきたんだ」

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