明治編
2
第4話 道後温泉
「そうしたわけで」
中村宗太郎の歴史講釈はまだ続いていた。
「定行公は長崎警護のために二ヶ月あまりも同地に滞在し、ポルトガル船の上で接した南蛮菓子をいたく気にいって、それを松山の名物にするに至ったというわけです。当地松山では、久しくこれが通説となっております」
「なるほど。お話、ありがとうございました」
「いえいえ」
二人は愛松亭に辿り着き、中村は去っていった。一夜明けて、翌日は日曜日であるから休みだ。金之助は道後温泉に行ってみることにした。
道後温泉というのは、松山市内に沸く天然温泉である。歴史は古く、紀元前一千年頃、つまり縄文時代の遺物が近くで見つかることからその歴史は三千年に及ぶと言われることもある。そこまで話を掘り返さずとも、『伊予国風土記』や『日本書紀』などといった神話時代の文献に登場していて、
「なんて立派な建物なんだ。三年前とは大違いだ」
これまで一度も説明してこなかったが、金之助は実は三年前道後温泉に、ということは当然松山にも来たことがある。そのときは旅行であった。大学に松山出身の友人がいて、帰郷するというのでついて行ったのである。普通、大学の友人が帰郷するからといって東京ものの人間が四国までついて行ったりすることはないだろうが、金之助とその友人は各別に親しく、親友とも言うべき仲であるので、そういうことになったわけだ。
「いらっしゃいまし。ごゆるりと」
湯楼と呼ばれる道後温泉の本館建屋は三階建てになっており、一階に三十畳ほどの広さの、それも全部が御影石でできた風呂があって、その中央には直径五尺の巨大な湯釜がある。二階と三階は休憩所である。入口がサービスの内容別に三つに分かれているのだが、一番高いのに入っても八銭で済む。八銭で、三助と呼ばれる専門の人間が背中を流し、頭まで洗ってくれ、しかも湯上りには上の休憩所に上がって茶と、菓子が出る。
「これは天目茶碗か。それにこの菓子、例の『たると』じゃないか」
八銭の料金に込みになっている貸し出しの浴衣を着て、たるとをむしゃむしゃと食い、金之助はいい気分であった。それでつい、茶のおかわりを差しにきた女中に余計なことを言った。
「この『たると』というのは、正保のみぎり定行公が南蛮船の上で出会った菓子だそうだね」
すると、あらそうではありません、と言われる。
「たるとというのは、もとはカステイラだったのです。定行公は長崎でお召し上がりになった佐賀藩のカステイラのことがいたく気に入って、無理を言って藩士たちに佐賀藩の秘伝の製法を学ばせ、それで松山に戻ってからそれをもとに『たると』をお考えになったのですわ」
「へえ、そうなのかい。そりゃ知らなかったな」
と言っておいた。それで、翌日学校に出勤してから、中村とは別の同僚にまた聞いてみた。
「定行公が長崎で見出した『たると』というのは、ポルトガルの菓子だったのかい、それとも『かすていら』だったのかい」
すると、同僚はこう言った。
「いや、そうじゃありませんよ。定行公が出会ったのは、オランダ商館で作られていたオランダの、『タルト』という菓子だったと聞いています」
「ふむ?」
うちに帰ってから下宿のかみさんなどにも聞いてみたが、そのかみさんがする話もまた別の内容であった。金之助はぜんぜん分からなくなった。
「結局、『たると』というのは、何なんだ。定行公が長崎あたりの『なにか』をもとに考えたものであるとして、その『なにか』とは何であったんだ?」
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