第二話 定行とたると

 定行は通訳ひとりだけを連れ、ポルトガル船に乗り移った。その通訳というのはオランダ商館員である。オランダは一五七九年にスペインからの独立を宣言したばかりの新興国なのだが、そもそもなぜ独立しなければならなかったかというと、スペインが厳粛なカトリック国であるのに対し、オランダは新教、プロテスタントの地域だったからだ。ちなみにスペインとの間の独立戦争は八十年戦争と呼ばれ、この時点では(しばしば休戦を挟みつつも)まだ続いている。


 さてそのオランダと、日本との関係は慶長五(一六〇〇)年に始まる。同年の関ヶ原の戦いに先立つこと半年ほど、オランダ船リーフデ号が日本に漂着した。そのリーフデ号に、ヤン・ヨーステンという船員が乗っていた。徳川家康はどういうわけかヨーステンを気に入り、彼に国際貿易のための実務を任せた。ヨーステンは江戸に屋敷まで貰って、家康のために精勤した。なお、そのヨーステンの屋敷のあった場所というのが現在の東京・八重洲で、八重洲という地名はこのヨーステンの名に由来するものである。


 オランダは一六〇二年に東インド会社を設立して極東への進出に力を入れ始めた。一六〇九年、家康とヤン・ヨーステンのもと、オランダと日本との間に正式な国交が結ばれ、朱印船貿易が開始される。ポルトガルやスペインのようなカトリック国は日本をキリスト教化することを狙っているがプロテスタント勢力はそうではない、という家康の認識に基づいた政策であった。


 家康の死後、日本は鎖国と呼ばれる海禁政策を強化し、ヨーロッパ諸国と次々に断交した。しかしオランダとの関係だけは残り、これがよく知られるように、幕末の日本開国に至るまで続いた。前に述べた通りポルトガル勢力が日本から駆逐されたあと、オランダは長崎・出島に出先の拠点を置き、欧州の国家としては単独で、日本に大きな影響力を及ぼすようになった。幕府の側も、オランダからもたらされるヨーロッパの文物や情報などを重視し、オランダとの関係だけは末永く大切にしたわけである。


 そのような事情を踏まえてのことであるから、定行が通訳にあえてポルトガル語の分かる日本人ではなく、オランダ勢力の関係者を立てたことにも重要な意味がある。要するに、日本はオランダを介してしかヨーロッパと、或いはキリスト教圏と交流を持つ意図がない、ということを示すのが目的であった。交渉の席上、オランダの通訳は、ポルトガル船に乗っていたポルトガルの王使からの言葉をこう伝えた。


「『わたくしどもは国王ジョアン四世によって派遣されて参りました。我らの王はすぐるキリスト歴一六四〇年、主の加護を得てポルトガルの王に即位いたしました。したがってわたくしどもは、それ以前の者たちと、貴君らニホンの皆様との関わりについて覚知するところではあり申さぬ。主な用件と致しましては、ジョアン四世の即位と、新国ぽるとがるの成立をお報せしに参ったのでございます』」


 ふむ、と定行は鼻白んだ。まだ十年も経たない以前の国際外交上の大事件について、こんなところまで特使として派遣されてくる人間が知らないなどということはあり得ないが、かといって、向こうからそのことに言及しないのであればこちらからそれを言い出すのも外交儀礼上如何なものかというところではある。


「お申し出の段、相分かり申した。されど我が国は、オランダ国以外のヨーロッパ船の出入りを、以前も、今後も、一切禁じるものである」


 通訳が定行の言葉をポルトガルの王使に伝えた。王使の表情に鋭い緊張が走ったのを、定行は見逃さない。さて、短くも真剣なやりとりのあと、通訳は定行にこう伝えた。


「……どうやらやはり、この者たちは日本との改めての国交の樹立、並びに通商のを意図してやってきたもののようです。如何いたしましょうや」

「その旨、幕府の代表者としては聞かなかったことと致し、わし一人の胸のうちに収めたい。さもなくば、再び血を見ることになろう。それは誰の望むことでもないと思うが、どうだ」

「御意にございます」

「されば、即刻の退去をその者たちに告げよ」


 再びオランダの通訳が、ポルトガルの王使に、幕府の全権を代行する定行の言葉を伝える。


「……然様ならば、これにてポルトガルへと引き返すことに致します、と申しております」

「そうか」


 定行は深く安堵した。どうやらこれにて一件落着のようである。


「ただ」

「ん?」

「せっかくですのでお別れの前に、菓子をどうぞと申しております」

「菓子?」


 ポルトガル側の召使が、一皿の西洋菓子を持ってきた。


「なんだ、それは」

「セッシャにも分かりませぬ」


 とオランダ人が言う。


「訊いてみてくれ」


 オランダ人が王使に尋ねる。


「それなるは、TORTAなるポルトガルの菓子である、とのことです」

「なに? たるた? いや、『たると』か」

「御意にございます」

「それはオランダにもあるものではないのか?」


 そう言うと、通訳は少し黙ってから、こう言った。


「オランダにも、タルトと申す菓子はあるのですが……そこにあるものとは、まったく見た目から違います」

「なるほどな。まあいい。日本のものでも南蛮のものでも、菓子に罪はあるまい。頂くとしようか」


 そういうわけで、まず毒見のために通訳が、そして定行が、皿の菓子を手に取って食した。


「おお!」


 定行は破顔した。


「なんと、これはうまいではないか」


 定行は皿の上の菓子を全部食べた。


「『まだありますが、お代わりをお持ちしましょうか』と申しております」

「うむむ。では……頼む、と言ってくれ」

「承知いたしました」


 こんな外交儀礼の場では、菓子のお替りなど遠慮するのが常の作法である。だが、定行はあえてその矩を越えた。


「うむ。うまいのう」


 それを見て、ポルトガルの王使も笑みを浮かべた。他意のある笑みではなかった。自国の菓子をうまいうまいと言って食べる異国人の所作を、純粋に好ましいと思ってのことであろうと思われた。


 さて、それからしばらくして。定行は日本船の上に立ち、ポルトガル船二隻が水平線の向こうに去っていくのを見届けた。


「無念である」


 と、言うのを黒田家の殿様が聞きとがめた。


「何が無念だというのです。異国船、無事に退去せしこと、まこと日本国の慶事ではありませぬか」

「いや……なに。それは確かに佳きこと、なれど」

「なれど何です」

「『たると』だ。たるとの製法を聞き出す暇などは全く無かった。それが無念なのでござる」

「はて。たると、とは何で御座いましょうや」


 定行はそこで嘆息した。


「『たると』とは何か。そう、正にそれが問題なのだ」

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