正保編
壱
第一話 日本とポルトガル
日本とポルトガルの関係はそもそも天文十二(一五四三)年に始まる。九州の種子島に中国の船が漂着したのだが、そこにたまたまポルトガル人が乗り合わせて居たのである。そのポルトガル人が火縄銃を持っていた。種子島の領主がそれを買い取って日本に広く伝えたことから、この事件は日本では一般に『鉄砲伝来』として広く知られている。そして無論のこと、ポルトガルの、というかヨーロッパの側にとっても大きな出来事であった。かつてマルコ・ポーロが『東方見聞録』において伝えた『黄金の国ジパング』の実在が確たるものとなったからである。
さて、その後天文十九(一五五〇)年には長崎・平戸にポルトガル船が来航し、日本とポルトガルの間のいわゆる「南蛮交易」が開始された。まもなく始まる
だが、それらの文物の中に『キリスト教』というのが含まれていたことが、やがて問題視されるようになる。天正十五(一五八七)年、秀吉によって最初のキリシタン禁令が出された。いわゆるバテレン追放令である。このときは貿易までは禁止されなかったが、そんなことをしてキリスト教の国であるポルトガルの心証が良いわけはない。両国の外交関係は次第に悪化し、そして慶長元(一五九六)年には秀吉の命でいよいよキリスト教に対する大弾圧が始まった。秀吉の死と徳川政権の樹立を経ても事態は抜本的な改善を見るには至らず、幕府を興して初代将軍に就任した家康も晩年にたびたびキリスト教の禁圧を行い、続く二代将軍
日本は全ヨーロッパ勢力と完全に断交したわけではなく、よく知られているようにプロテスタント国のオランダとのみは交易を続けたのであるが、その話はまだ置いておこう。さて、日本からこうまでの拒絶を受けてポルトガルがどうしたかというと、彼らはまだ交渉の余地があると考えていたようで、寛永十七(一六四〇)年、通商再開を求めて船を送ってきた。このときの幕府の対応は強硬であった。船に乗っていた使者と乗組員、合わせて六十一人であるが、その全員が幕命によって斬られたのである。
これで日本とポルトガルの交流は完全に断たれたかに見えた。少なくとも幕閣はそう思ったろう。だが、ポルトガル本国ではその一六四〇年、大きな変革があった。十二月に革命が勃発し、ハプスブルク家の支配が覆されてブラガンサ王朝が興ったのである。
王朝が覆ったのなら、考えようによっては別の国だ。ちなみに直接の関係はないが中国で明が清によって代わられるのは四年後、一六四四年のことである。そうした情勢を受けて、ポルトガルは性懲りもなくまた日本に船を送った。この船は一六四七年六月二十四日に長崎に到着、港の外に錨を下ろした。
「すわこそ、これは何たることか」
となったのは日本の側である。七年前に六十一人を殺したばかりの状況で、またポルトガル人がこちらにやってきた。復讐に来たのか。それとも、まだ執拗に日本との国交回復を狙っているのか。その意図は読めなかった。いずれにせよ、この問題に関する幕府の責任者となったのは長崎奉行、松平定行である。
「長崎に向かわねばならぬ」
となるのは当然だ。徴発できる限りの船を徴発し、動員できる限りの兵を動員し、その手元の勢力は用船三百五十艘に兵七千二百。海路を採り、七月十三日長崎に到着した。ちなみに、到着してみると周辺諸藩がめいめい思い思いに軍船兵員を派遣していて、総人数を数えてみると約五万の兵力が長崎に集まっていた。完全に大戦争の様相だが、ポルトガルの船はわずかに二隻である。前回のように皆殺しとする覚悟でこれを敵と扱うなら話は容易いが、しかしまずはポルトガル側の意向を知らなければならない、と定行は考えた。
「それでは、使者を上陸させるのですか?」
と、問うのは
「いや。幕府の代表者として、そのようなことをさせるわけには参らぬ」
「ならばどうなさるのです。船べり越しに先方の用件を聞くのですか」
「わし自らが南蛮船に乗り移り、用を承ろう」
「なんと。無茶を仰る」
「無茶は承知でござる。拙者も武士に御座れば」
「これは天晴れ
そういう次第で、定行はポルトガル船に乗り込むことになった。決死の覚悟を以て。
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