君から僕へ

 ログハウスに、ミカがやってくる日。私は着々と準備を進めていた。外には雪が積もっていた。

 玄関に、暖炉で温めておいた、蜜柑色の真新しいスリッパを並べる。

 丁度よく、チャイムが鳴った。


「ようこそ、ミカエル」

 私は重い木の扉を開け、彼を家へ迎え入れた。

 彼は白のタートルネックの上にキャメルでウール生地のコートを羽織り、紺地にチェックのマフラーをつけていた。


「先週ぶりだね、行人」

 やはり彼が私を呼ぶ時の名前は変わらず、少しだけ悲しくなる。

 だがそれも今日で終わりだと思うと、幸福感に包まれるのだ。


 彼はコートを壁に掛けた。

 彼の真っ白のセーターが現れ、後で汚すことに少々の罪悪感を覚える。そのセーターの左胸にはポケットがあり、そこに自分の心臓をくり抜いて入れたく思った。


 彼は純粋な目で私を見る。だがそれは呪いなのだ。私はそれを解いてやらなくちゃいけない。

 怪物達も囁いている。今日が彼と過ごせる最期の日だ、大切にしろ。

 そうだ、もてなすのだ今日は、盛大に。


 シャンパンを飲みながら彼と歓談していると、急に雰囲気が変わった。彼は申し訳なさそうにしていた。私は悟った。恋人がいる、と言われるのだと。

 だから私は、名残惜しく思いながらも、行動に移すことを決めた。迷いは彼に会うまでの一週間で捨てていた。


「ねえミカ。最期にそりで遊ぼうよ」

 彼は少しだけ戸惑って、それから喜びの表情を見せた。

「いいね」

 彼は言った。その返答すら、すでにわかっていた。

「行人とそり滑りするのは、2回目だね。楽しみだ」

 彼は微笑む。

 そうだ。彼は断れない。私がやりたいことには付き合ってくれる。彼の良心を利用しようと決めていたのに、胸がちくりと痛んだのは気のせいだろうか。


 私たちは外に出て、納屋に向かった。

 二度と戻ることのないこの家に目線だけで別れを告げ、昔彼がくれた銀のシャープペンシルを腰ポケットに刺した。

 

 納屋の前の木の枝に括ってあるロープをみて、ミカは首を傾げながら私に言った。

「不思議なところにあるものだね」

 どきり。心臓が跳ねる。彼は、私の企みに気づいているのだろうか。私は曖昧な笑顔を作り、仕舞うのを忘れていたよ、と誤魔化した。


 私は納屋の鍵を開け、彼と中に入って、そりを出した。そして、彼にそりを持たせて、先に納屋から出てもらった。そして、彼がもうすぐ木の下にたどり着くだろう、という瞬間、梯子にくくりつけておいたロープを思い切り引っ張った。引っ張ると、レンガが向かいの木から落ちてくる仕組みになっていた。まず、レンガがミカエルの頭にあたり、その後私に直撃する予定である。文系の私が、振り子の原理だとかなんだとかいう、あやふやな物を利用したのだから、上手くいくか不安だが。


 私は、彼を見ていた。栗色の髪は風になびき、雪に反射した光でちらちらと七色に輝いていた。唐突に私の心の奥深くから、仕舞ったはずの言葉たちが湧き上がる。言うなら今だと思った。


「ミカ」

 呼びかける。彼の身体が少し動いた。

 今、私の方を見ないでくれ。私は酷い顔をしているから。

 涙が溢れ、息が詰まった。嗚咽が漏れる。見っともない声で、私は二度目の告白をした。


「好きだ」


 言葉はすとんと雪に落ちた。

 ミカが振り向いた。その目は涙に溢れていた。


 私は彼を殺すのだろうか?



「ミカ、伏せて!」

 はようやく罪を犯したことに気づいた。

 ミカは伏せようとしたが僕の方へレンガが迫っていることに気づき、それを止めようとしたが、僕は結末を知っていた。止めることはできない。の罪の重さだから。


 僕の目の前に赤茶のレンガが迫っていた。僕はそれを真正面から受け止めようとした、その時、目の前にキャメルのコートが羽ばたいた。

 僕は目を瞑った。


 衝撃。だけれど不思議なことに、痛みは襲ってこなかった。

 少しずつ体を起こす。


 飛び込んできたのは赤。


 雪の白に加えて、半分ほど赤に染まった世界が広がる。


 赤……?

 僕の血ではない。


「ミ、ミカ……‼︎」

 僕のすぐそばに、頭から血を流したミカが倒れていた。真っ白のセーターを、真っ赤に染めて。僕は瞬時に理解する。彼は僕を庇ったのだ。彼ならそうするだろうと、少し考えればわかったことなのに。どうして、僕は彼の気持ちを想像できなかったのだろう。


 彼の頭を、彼が首に巻いていたマフラーで押さるが、出血は止まらない。

「ミカ、今すぐ救急車を呼ぶからね。本当にごめん、僕のせいで。少し耐えて」

 僕は震える手で、ボタンを押した。視界が涙でピントぼけして、時間がかかる。

 ようやく電話がつながり、僕は起こったことをありのまま伝えた。

 救急車は5分ほどで到着するらしい、その間僕は何をしたらいいだろう。何ができるだろう。

「ごめんね、ミカ」

 もう一度声をかけると、彼は薄目を開けた。

「ユキ……。無事?」

「こんな時まで君は、僕を心配するのか」

 もうやめてくれ、僕の心が居た堪れなくなる。だけれど彼にこの行動を取らせたのは僕だ。

「本当に、ごめ」

 僕の言葉を遮って、ミカは掠れた声でこう言った。

「今日、もういちど君に告白したくて……でも叶いそうにないや」

 僕は戸惑う。

「だけれど、ミカには彼女がいるだろ?」

 接吻しているのを見た、そんなことを言いたげにしているのを感じ取ったのか、彼は少しだけ面白そうに微笑んだ。

「覚えていないのかい? あれは私の妹だよ。遥。前に話しただろ?」

 僕の全身から冷や汗が吹き出した。すべて私の勘違いだったのだ。


 「今回は日本国籍を取るため、そして君に結婚を申し込むために戻ってきた。戦争のせいで、私も妹も、20を過ぎても二重国籍のままだったから」要約すると、このような感じのことを、ミカは途切れ途切れに話した。


 彼の青白い肌から、どんどん血色がなくなっていく。

 声にならない声で、シャーペンを貸してほしいと頼まれる。

 僕はポケットに刺してあった、虹のピンバッジがついた、それを渡した。


 「それ、まだ使ってくれてたんだね」

 彼が微笑む。

 「もう何も喋らないでくれ。喋ると、余計に血が出るから」

 彼は頷いた。

 このシャープペンシルは、付き合ってからしばらくして、僕が筆記用具を忘れた日に貸してもらったものだった。使い心地が良くて、彼にそのままくれたのだ。


 彼の骨ばった手がシャーペンを握る。

 彼の手は霜焼けで赤くなった。

 さらさらと雪の上にロシア語の文字が走っていく。

 《 я тебя люблю 》

 彼は真面目な顔をした後、悪戯っ子のような目をした。

 なんて読むかは知っている。何遍も彼から聞いた言葉だ。


 私の目が熱くなった。胸が熱くなった、心が燃えた。

「僕も」


「大好きだよ、ユキ」

 彼は微笑んだ。天使のように。

 彼は目を閉じる、そして僕と彼は小さな接吻を交わす。

 空で鐘のなる音が聞こえ始めた。


 その後、救急車が来て、僕は警察署に連れて行かれた。

 僕の感情は左右に触れていた。彼はなぜ許してくれたのか、なぜ私を好きなのか。

 なぜ、私はここまで激しく思い込んでしまったのだろうか。


 森は轟々と鳴り、目的を果たしたレンガが、振り子のように弱く左右に振れていた。愛の言葉は土で汚れた。

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