神の延命

 私の家は山の中腹にあるので、昼間でも霜は残っている。鼻歌混じりに坂道を降りる足元で、枯れ草に降りた霜柱がザクザク鳴った。なんとも言えぬ高揚感があった。いつもだったら絶対しない行動をとるのは、全部君のせいだった。


 君の目を思い出す。君はメロンパンが好きで、一回にそれを3つも食べていたっけ。口元にパンを運ぶ動作。私に分けてくれる時の目線。

 またあの日のような関係に戻れるだろうかと期待し、歩みを早める。


 久しぶりの街。暖かそうなショーウィンドウの前を通り過ぎる。角を曲がると、二つ向こうの店の前に、君が立っているのが見えた。


 見紛うはずはない。心がことんと鳴った。


「ミカエル」

 呼びかけてすぐ、私は言葉を止めた。

 長い黒髪を揺蕩わせ、一人の女性が店から出てきた。彼女はバッグを持っている方とは反対の手で、彼の腕に自分の手を滑り込ませた。


 ミカが口を開いたのが見えた。そして私の耳はその言葉を捉えてしまう。3年ぶりの彼の言葉は「ハルカ」だった。彼女は幸せそうに笑い、ミカの白い頬に接吻した。

「パン、買ってくれてありがとね、ミカ」


 その時、私が感じた物は、何。

 絶望?悲憤?それとも怒り?


 いや、違った。


 結局、君もそっち側かよ。

 という諦め。だけれど今私が思うに、そこで諦めという感情に落ち着いてはいけなかった。『諦め』に『ない』が付いたら、『諦めない』になってしまうから。


 そう。私はまだ、彼にしてしまっていた。


 私は一歩踏み出して、できるだけ明るい声に取り繕って「久しぶり」と笑った。

 彼はもちろん、冬の朝に見る輝かしい太陽の笑顔で迎えてくれた。


 横でそれを眺めていた彼女は笑顔を私にまで向けながら言った。

「席を外すから、カフェで彼と話してきなよ」

「ありがとう、ルカ」

 その時二度目の諦めを抱いた。彼女も愛称で呼ばれているのか、と。


♦︎


 その後、彼はハルカについて触れず、ざっと近況を話してくれた。最初はぎこちなかったものの、私たちはすぐに昔のように話した。

 彼はパン屋に行ったことを話し、私はその場所が汚されたと感じた。


 ちらりと目を流すと、窓際に置かれていた植物が目に入る。

 白。緑。赤。金。

 確か、赤のポインセチアの花言葉は祝福だ。私も彼のことを祝福すべきだとでもいうように、ラメがかけられた葉っぱは意地悪そうに光っていた。

 祝福なんて今の私が一番したくないことなのに。


  それから私は最後の期待を込めて、彼を家に誘った。私は彼を、あの女から奪いたかった。


 彼は優しいから、いつものように頷いた。

 来週。私は彼を自分のものにするとを決めた。


 私たちは笑顔で別れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る