怪物の尊厳

 鳥の鳴き声でまた朝が来たのだと気づく。日は昂りきっている。空は曙色ではなく、冷たい空気を感じさせる透明な色だ。

 

 君のことを考えて過ごすと夜は直ぐに開けた。今日で何日目だろうか。私は溜息を吐く。空気が白く濁った。気持ち悪い。


 また、君と別れた季節が来た。

 

 あれから三年も経ったのに、まだ私は前に進めていない。

 停滞する考えを振り払うように、勢いよく立ち上がり水色のスリッパを履く。

 

 冷たい木の廊下を進み、洗面台の前に立つ。

 鏡に醜い怪物が映り私を睨んだ。できるだけ音を立てずに顔を洗い、口を濯ごうとしてコップを持った。鈍い痛みが走り、真っ白なボウルに血が一滴落ちた。コップの持ち手に沿って曲げた指の関節に沿って、無数の切れ目が走っていた。

 

 「痛っ……」

 思わず声が出てしまう。

 

 相変わらず怪物は、虚のような目でこちらを見つめていた。

 だから私は音を立てないようにリビングに戻った。


 ザザ、という音と共にラジオが始まる。ラジオで面白い情報が聞こえた時、すぐメモを取れるよう、シャツの胸ポケットに銀のシャープペンシルを差し込だ。

 まだ6時だった。


『北西戦争終結から、2年が過ぎました』

 北西戦争。北国と、ヨーロッパ付近の国が戦った戦争である。私が大学を卒業した年から始まったから、開戦は約3年前か。


『首都のM市です。街の大部分は復興しており、西国から得た賠償金で再建が』

 M市は元恋人が住む町だ。今も住んでいるかは知らないけれど。

 私はまた深い思考に陥ってしまう。その横でラジオは情報を垂れ流し続ける。それはバックミュージックに過ぎない。

 私は考える。そもそも彼が生きているかどうかもわからないのだ。今更彼の事を心配しても意味がないだろう。他の人が聞いたら呆れるだろうが、私にとって彼がいつどこで死んでいようが関係ないのだ。彼の死は、私が受けられる救済である。

 

 私たちは、大学2年の時から卒業までの約2年と少しの間、交際をした。最初は彼のことをサークル仲間だとしか思っていなかったし、相手もそう思っていただろう。

 彼は明るく目立つ方だったから、何方かというと嫌いな人種だった。

 

 彼と仲良くなったきっかけは何だったか。そんな問いを投げかけるのは無粋だ。だって、決まっている。私の中で、あの瞬間はまるで閃光のように、今でも色褪せず光を放っているのだから。


 彼と初めて喋ったのは、秋だった。私達は散策サークルに入っていて、その日は図書館で、次に行く予定の丸岡城の下調べをしていた。

 インカレだったので、彼は他大学の女性たちと輪になっていた。彼は北国の母親を持つのだと友に教えられたことがある。それで、あの栗色の髪と整った顔立ちにも頷けた。女性らは一生懸命に彼に向かって話しかけていたけれど、彼はそれを制して調べ物に打ち込もうとしていた。

 それを見るまでは、彼のことを、所謂パリピというやつだと認識していた。面白みのないことには打ち込まず、表面だけで生きている人物だと思っていた。

 だがその時、私は彼に先入観を抱いていたことに気づいたのだった。そしてそれを恥じた。その上、申し訳なさからか、ほんの少しだけ好感を持ったのだった。


 突如。

 静かな図書館で、女性の叫び声があがった。周りの人たちが一斉に、彼がいる方向に視線を向けていた。私も其方に目をやった。

 

 ロングヘアを振り乱し、女性が唇を震わせていた。

 相対して、彼は静かに座っていた。

 女性は低い声で、確認するように言った。

「そのシャーペンは、あなたの物なのね?」

 

 彼は頷いた。

 彼女は勢いよく机からシャーペンを取り、床へ叩きつけた。

 私のことは遊びだったのね、と昼ドラのように叫びながら。


 彼女が去った後、シャーペンが私の座っている机の下まで転がってきたことに気づいた。

 拾って見ると、虹の旗のマークの金属バッジがクリップの部分についていた。


 私は悟った。

 ああ、彼も同類なのか、と。


堂本どうもと

 上から声が降ってきた。温かみのある、明るい声が。

 いつの間にか、彼が私の座っている机の横に立っていた。

 彼の栗毛が揺れ、影を作る。

「それ、返してもらってもいい?」

「ああ、ごめん」

「悪かったね。騒いでしまって」

 彼は元いた席へ帰っていこうとした。

 だがそこで私は、彼をひきとめたのだ。

 彼のコートをつかみ、私は言った。

「ミカエル。君もと同じなのかい?」

 同類を見つけたことの喜びか、それとも彼が悲しそうな目をしていたからか。

 理由はわからないけれど、そこに理由を求めなくてもいい。だって、そこから私たちは仲良くなったのだから。


 私がそう言った後、彼は少し驚きと、興味の目をした。それからとても優しく微笑んだ。

「今夜、私の家に来ないかい?」

 彼の一人称はだった。

 ほんの少しの期待を胸に秘めながら、私はこくりと頷いた。


 私たちはすぐに意気投合し、その日から一ヶ月ほどで交際を始めた。


♦︎


「ミカエル」

 ある日、私が彼のことを呼ぶと、彼は私の唇に人差し指を当てた。そしてアーモンド形の目を細めた。無邪気で悪戯っぽそうな、そんな茶色の目が覗いた。

「これからはミカと呼んでほしい」

「だけれど、僕は気に入っているんだ」

 私は彼の名前が大好きだったので反対した。彼の外見は天使のようで、(心は悪戯好きの悪魔に似ていたけれど、芯には優しさがあって)彼にぴったりだと思っていたから。

「ミカは日本では女性名だろ」

 彼は付け加えていった。

「私の名前は変えようもないから」

 彼は愛する母親につけられた名前を気に入っていた。しかし彼はその名前にある種の縛りを感じていたらしかった。

 それでわたしは同意し、彼も満足したように頷いた。

行人ゆくひとのことも、愛称で呼んでいいかな」

 私はもちろん頷いたけれど、私は行人という名前に、どんな愛称をつけたらいいのか見当もつかなかった。ミカのことだから、名前ごと全部変えてしまったりするかもな、などと思っていた。

 

「ユキ」

 ログハウスの、暖炉の温もりのあるその部屋で、雪のように真っ白な、そんな名前が降ってきた。

 私は、私の耳が少しだけ赤らんだのを感じた。

 

「実は、ずっとそう呼びたいと思っていたんだ。私と君が初めて喋ったあの日から」

 彼の茶色い目はきらきらと期待に輝いており、私は初めて、私からそうしようと思った。彼もわかっていた。お互いの顔が上気していた。私達はそのまま短い接吻をした。


「私は雪が好きなんだ。北の雪は、想像もつかないほど白いんだ」

 接吻し終えた後、彼はゆっくりと夢見心地でそう言った。

「ほら、君の白い肌によく似合う」

 彼はそう言ったけれど、彼の肌も、私に負けず劣らず白かった。

 彼には北国の国籍と日本の国籍のどちらも持っている。母と妹が向こうの国に住んでおり、今は父と一緒に暮らしているのだった。

 

 あの時、私は自分の住む町が嫌いだった。国が嫌いだった。彼はそれに気づいていた。

 だからこそ、『いつか私と北国へ旅しよう。住むのもいいな』と。

 事あるごとに、彼はそうやって言ってくれるのだった。


 彼の両親は理解がある人達で、私の両親とは全く違った。

 大学4年の冬、私の父母は事故で死んだのだが、その時どれだけ安堵したことだろうか。そして彼は、いつもと同じように慰めてくれるのだった。

 

 彼と交際している間はまるで春のようで、言い表せないほど美しく穏やかな日々だった。だけれどその日々は、大学卒業と共に終わったのだ。

 

 ♦︎


 大学を卒業して、私は専業作家になっていた。


 空は薄曇りで葉桜が滲む中、彼は私を呼び出した。

 卒業式が終わってからは、1、2回しか彼とは会っていなかった。連絡も全くせず、3週間が経っていた。


「別れよう」

 彼は単調直入にそう言った。

 

 目線が合わなかったのは、その日が初めてだった。いつもは真っ直ぐに透明な茶色の目で覗きこんでくるというのに。私は、彼の目を見ようとした。だが上手くいかなかった。私は目線を落とした。


「ミカ」

 呼びかけに彼は答えず、私の心には錆びついた鉄の塊が入り込んだ。

 だから。

 

 私はいつも通り、こくりと頷いた。いつもより時間がかかったけれど、ゆっくりと、同意を示した。


 彼は俯いた。

「もう会えないかもしれない。行人を一人にしたくない。いっそ、一旦別れたほうがいいかもしれないって思ったんだ。だから、」


 彼が、私のことを行人と呼んだ。限界だ。

 もう何も聞きたくなかった。続く言葉を遮って、私は言った。


「ミカエルなんて大嫌いだ」


 彼の目が大きく開かれた。目の端から涙がこぼれ落ちる。


 なんで。ずるい。なんで泣くんだよ。

 先に別れようと言ったのはそっちだろう。

 泣きたいのはの方だ。

 大嫌いなんて思ってない。だけど、ミカはわかっていない。君は僕の全てな事。


 君と過ごした数年間は、私にとって最高の輝きだった。

 君がいない私には、生きる価値などない。


「さようなら」

 

 今までありがとうも何もなしに、私はその場を後にした。

 後悔だけが押し寄せる。私が彼に頼りすぎたからだろうか。彼は優しいから何にしても断れなかったのだ、きっとそうだ。そしてミカに限界が来たのだ。


 あの後すぐ、彼が北国に戻ったと、友達から聞いた。


 それからその日を後悔し続けて、3年。

 あの日彼は何かを言いかけていたよな、とか。私が感情的になっていなければ、まだ親交は続いていたのかな、だとか。思い続けている。


 ♦︎


 私の携帯が振動した。

 誠からメールが届いたらしい。誠は大学時代の友人である。


 『久しぶり。元気か。ミカエルが日本に戻ってきてる。お前に会いたがってるが、自分からは連絡できないそうで、俺が仲介した。良い返事待ってる』


 なんだって。

 私の全身の血液が沸騰した。


 ミカが私に会いたがっている、なんて。

 ああ、私の天使、ミカ。


 私は震える手で返信のメールを打った。

 『会いたい。今すぐにでも。ミカエルが今どこにいるかわかるか。会いにいく』

 

 別れた日の気まずさなど、今はどうでもよかった。

 愛の溢れた日々が忘れられず、恋愛感情を拗らせた怪物のような私が、彼から会いたいと思われているという事。

 それは私にとって救済に思われた。


 好きだ。愛している。私はまだ、いや、一生、彼のことが好きなのだ。そう自覚したのはあれから3年越しだった。

 

 誠から返事が来る。

 『今はS市のパン屋にいるらしい。頑張れよ』


 S市のパン屋といえば彼処しかない。私とミカが、在学中何度も通ったパン屋。


 急いでいるが、鏡に向かい、髪を梳かした。彼には少しでもよく見せたかったし、見られたかったから。鏡に映る怪物の髪をひたすら梳かす。赤い目が涙で光っているのが見えた。そうか、お前も嬉しいんだな。私が口角を緩ませると、怪物も同じように笑った。いつも見ないようにしている怪物すら、君に会う手前では愛らしく見えた。



 チャコールグレーのコートを羽織り、帽子をかぶる。

 君がいる街に、歩き出す。

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