宿痾の城主
ティフォン城
ティフォン城。今も西部統一戦争の傷痕を残すこの古城は、西部総督エストレージャ家の統治下にある王国西部最北端に位置する、アステリスモ家当主ピスシス・アステリスモの居城である。
もともとこの城は、西部統一戦争以前、歴史だけはある小貴族ベテルヘウセ家のものであった。西部統一戦争当時の当主サトゥルノ・ベテルヘウセは由緒正しき一族の誇りを守るため、エストレージャ家に迎合することをかたくなに拒み、西部統一に最後まで抵抗した。結果、この城が西部統一最後の砦となり、シリオ・エストレージャは、このティフォン城を制圧することで、ついに西部統一を成就させるのである。
西部統一という悲願のためなら、一貫して厳しいやり方を徹底したシリオは、最後まで自らに抗ったベテルヘウセ家の人々を、まだ歩くこともできない幼子に至るまですべて処刑し、長い一族の歴史を断った。
統一後、ピスシス・アステリスモは自らが行ってきたことに対する見返りを主君へ求めた。それに対しシリオが与えたのが、かつてのベテルヘウセ家の所領とこのティフォン城だった。元々エストレージャ家に仕える一騎士の家柄でしかなかったアステリスモ家は旧ベテルヘウセ領を手にし、最北端の地でエストレージャ家の厚き信頼を誇示しているのである。少なくとも、表向きには。
城内最上階にあるピスシスの居室では、城主ピスシスの他、ふたりの男の姿が見えた。
ピスシスは、鮮やかな刺繍と装飾品で飾られた高価そうな召し物に身を包んでいる老年の男だった。だが、その絢爛豪華な召し物を以てしても、自身からにじみ出るその禍々しさはいささかも隠せてはいなかった。右腕は肩まで覆う鈍色に光る金属の籠手を装着しており、同じ右側の足も、籠手と似た意匠の腰まである具足に覆われている。そして、顔の右半分には、髑髏を模したようにも見える悪趣味な仮面が被されていた。
ピスシスは決して人前でこの装具を外すことはない。また、この異様な出で立ちのために、城から出ることがほぼなく、領民たちのほとんどは、ベテルヘウセ家に代わるこの城主の姿を見たことがなかった。
残るふたりのうち、ひとりは華奢で小柄な体格の男で、骨ばった鼻からずり落ちる細い金縁の大きな丸の眼鏡をしきりに指で押し上げていた。金牛傭兵団のタウロに禁断の外科手術を施した医師にして錬金術師、あらゆる外法の技術と呪術に通じた闇世界の博士ヘミニスである。残るひとりは、近衛剣士隊隊長のサテーリテだ。
ピスシスは立ったままのサテーリテを、繊細な彫刻と豪奢な金属細工に装飾された背もたれの高い椅子に座ったまま見上げた。
「我らの命が狙われているという話だったが」
ひじ掛けに乗せた金属の右腕で頬杖をつきながら向けるピスシスの視線は、どこか自分以外のあらゆる他者を嘲るようである。異様な風貌から放たれる視線には人間が抱く恐怖をくすぐる不気味さと不快さがあったが、サテーリテはその視線を向けられても動じることなく、涼しげにうなずくだけだった。
「何日待ったかわからんが、一向に刺客など来やせんぞ」
嘲笑めいてピスシスが息を吐くと、サテーリテも対抗するように溜息を吐く。
「だからと言って、そんな嫌味を直接言うためだけに、わざわざ私を呼びつけることもないでしょう」
サテーリテはこのティフォン城の城主から緊急の招集を受けていた。面倒と思いながらも、この気難しい老人を無碍に扱うのは得策ではないと見て、馬を飛ばしてやってきたら、案の定、ただただ嫌味をぶつけられるだけだった。
「おまえを召喚したのはそういうつもりからではない。腕に覚えのある人間がひとりでも多くいた方が、刺客が現れたときに有利に戦える。だから、おまえを呼んだのだ。わかるだろう? サテーリテ隊長」
毒蛇のような視線とは裏腹に穏やかなその口調には、徹頭徹尾、陰湿な男の性根がにじんでいる。
「本当にオスクリダドの面々を狩り回っている者なんているのかね、ん? カンセルは不埒な野盗とつるんでいたし、リブラも闇市で怪しい連中とばかりやり取りしておったんだろう。タウロは傭兵だから言わずもがなだ。どいつもこいつも死ぬにはそれなりに理由のありそうな連中じゃないか」
「山で隠遁生活を送っていたサヒタリオも実際にやられているんです。あなたの理論でいけば、サヒタリオの死にはどう説明をつけるので?」
サテーリテはやり返した。ピスシスはふんと鼻を鳴らす。
「まぁまぁ、私たちは王国西部の安寧を守る同志ではありませんか。そう、やり合わなくてもいいでしょうに」
ヘミニスがふたりの間に入ってなだめすかす。ヘミニスはサテーリテと目が合うと、眉尻を下げて柔和でどこか頼りなさげな微笑みを浮かべた。
ヘミニス。一見すると優しげな雰囲気の青年だが、その実はあらゆる邪道の術に通じた外法の達人である。しかも、青年ですらなく、実年齢で言えば壮年と呼んで差し支えない。だが、その肌の張りは不自然なほど若く、いつ顔を合わせてもまるで歳を取っていないように見えた。一体、どれほどその体に禁断の外科手術の刃を入れているのだろうと、サテーリテはいぶかった。
「ともかく、オスクリダドの面々が次々に命を落としているのは事実です。あなた方が今なお無事なのは、もしかすると、このティフォン城が侵入者に対して強固な守りを敷いているからなのかもしれません。ですから、私としてはこのまま最大限の警戒を続けていただくことをお願いするばかりです」
サテーリテはそう言うと、特にピスシスに礼を向けて、踵を返した。もうこんなところに用事はない。さっさと消えるに限る。
「どこに行くのかね」
大した用事もないはずなのに、ピスシスがその背中に声をかけた。サテーリテは大きな溜息を強靭な精神力で抑え込みながら言葉を返す。
「別件を閣下から任されてるんですよ。行方が知れなくなっている要人がいましてね。早々に探さねばならないんです」
ピスシスは胡散臭そうにサテーリテを見ていた。だが、何も言わなかった。
「それでは、失礼します」
サテーリテは最後にそう言ってふたりの元を後にした。
ピスシスの陰湿な雰囲気に濁り切った居室を出てすぐ、サテーリテはティフォン城の守衛長の姿を認めた。眉と顎の太い男で実直そうな様子がうかがえる。守衛長がサテーリテに軽く頭を下げたところで、サテーリテはその背を優しく叩き、廊下を少し一緒に歩こうと促した。恐縮する守衛長とサテーリテは並んで歩いた。
「この城の侵入者に対する守りには目を見張るものがある。素晴らしいの一言だ。この様子ではネズミ一匹入ることもかなわんだろう」
「は。お褒めの言葉、もったいなくございます」
「それで、ここだけの話なんだが、少しその鉄壁の守りを緩めてもらいたいのだ」
サテーリテが小声で言うと、守衛長は驚いたように目を見開いた。
「変な要求だと思うだろう。まぁ、聞いてくれ。ピスシス卿は正体不明の痴れ者から命を狙われている。このまま守りを固めて、侵入を断固許さないという姿勢もいいだろう。だが、それではずっとその痴れ者の脅威にさらされ続けることになる」
サテーリテはそこで話を一旦切って、相手の反応を待った。
「言われてみれば、その通りですね」
守衛長は、どう思うか確認されていると悟ってそう答えた。サテーリテは望んでいた反応にしかとうなずいた。
「だから、敢えてその痴れ者を城内に引き込み、こちらから仕留める。私は君たちの腕も信用しているし、なによりピスシス卿は西部きっての剣の達人でもある。老いてなお、だ。そう易々と討ち取られはすまい。ならば、万全の備えをした上で有利に迎え討つのはむしろ良策というものじゃないだろうか」
サテーリテの話に守衛長は神妙にうなずいた。
「たしかに、おっしゃる通りかと思います。そのような方針に転換したと。なるほど、心得ました」
方針を変えたのはサテーリテの独断である。だが、敢えてそれを明かす必要はない。
「痴れ者を放置すれば、シリオ・エストレージャ様にまで危険が及ぶだろう。西部の平和は君たちにかかっていると言っても過言ではない。期待してるぞ」
サテーリテは最後に守衛長の肩を力強く叩いた。気合が注入されたのか守衛長の目に強い意志の光が輝いた。
城の建物を出たところで、サテーリテは痛いような陽光に目を細めた。ピスシス・アステリスモ。あの金属の殻の下には生まれ持った宿痾が隠されている。宿痾を背負って生まれ、過酷に生きたその男は、この世のすべてを呪っているような人間だった。オスクリダドでは誰よりも残酷に振る舞い、霧の里においては、人形師の女性たちを、まだ胸も膨らまぬ少女から老婆と言える年かさの女性まで、命を搾り取る前にことごとく辱めた。
サテーリテは小さく呻いた。ピスシスのこの世に対する憎悪には限界がない。それは閣下たるシリオ・エストレージャまで及ばないとも限らないのだ。
あのハゲ散らかした占星術師の世迷言が、何度目かサテーリテの脳裏を掠めていく。
近しい者が災いを連れてやってくる。
サテーリテは、その近しい者というのが、ピスシスである可能性を強く感じていた。ピスシスはシリオ公の首を獲り、最後に西部すべてを呪うつもりではないだろうか。ピスシスは宿痾のおかげで子を成せない。すなわち、次の世代に宿願を託すことはあり得ない。ピスシスに残された時間が幾ばくかは分からないが、決して長くはないだろう。さすれば、いつ、なにかの行動を起こしても不思議ではない。
エスプランドール城から共にティフォン城へやってきた剣士隊の隊員が、城から出て来たサテーリテに駆け寄った。
「いかがしました、隊長? ずいぶんと怖い顔をされてますが」
隊員は軽口めいて言ったが、サテーリテは実際自分の表情筋がこわばっていたことを自覚していた。
「いや、ピスシス卿は気難しい人でな。良くないとは分かっていても、いつも顔を合わせるとどうも表情が険しくなってしまう」
サテーリテはそれらしい言葉で隊員をあしらい、城を振り返った。
痴れ者がピスシスの命を狙っているのなら、ここらで仕留めてもらうのが都合もいい。どちらが命を落としても、西部にとって無益にはなり得ない。ついでにヘミニスも死ねばいい。そうなればオスクリダドの人間はついに残りひとりにまでなる。西部の安寧のためには、過去の凄惨な歴史の裏側を知る人間は一掃されるべきなのだ。
エストレージャ公の命を狙っているはずの人形と人形使いを、サテーリテはどこか期待すらしていた。
城門のあたりでなにやら衛兵が問答をしている様子がちらりと見えた。並んで歩く隊員も同じくそれに気が付いたようで、先に言葉に出した。
「なにやら揉めてますね」
「今、ティフォン城は入城の規制が厳しい。それで、門前払いを受けているんだろう」
城門を潜るときにちらりと視線を向けてみる。麻のフードを被った町娘と思しき少女が衛兵相手にしつこく何かを訴えている。両手に持った手紙を衛兵の胸に押し付けているようだった。
「お願いです! アステリスモ卿に渡していただくだけで結構ですから!」
「素性の知れん娘の手紙を卿に渡すわけにはいかん。いい加減にして帰りなさい」
「ですから、素性は申しているじゃないですか! 私はエストレージャ家の血縁に連なる者です」
通りすぎようとしたサテーリテの耳に少女の言葉が不意打ちで突き刺さった。
「いい加減、質の悪い嘘はそのくらいにしておかないと、後悔することになるぞ」
衛兵が剣呑な空気を放った。
「待て」
サテーリテは衛兵と少女の間に手を差し入れると、衛兵を遠ざけて少女に目をやった。
「私の聞き間違いかな。今、何と言った?」
聞かれるとフードの少女は顔を上げてサテーリテを見た。
「私は、エストレージャ家の血縁に連なる者です、と」
衛兵も剣士隊の隊員も怪訝そうな目をサテーリテに向けている。だが、サテーリテは少女と真面目に向き合った。
「では、名はなんという?」
「ノーヴァ。ノーヴァ・エストレージャです」
隣で衛兵が呆れて肩を竦めるのがサテーリテの目の端に映った。だが、サテーリテは真剣だった。
「フードを取って見せよ」
エストレージャを名乗った少女はこくりとうなずき、ゆっくりとそのフードを取り、隠れた顔を陽の下に晒した。
たしかに言われてみれば、整った鼻筋と細い顎にはシリオ・エストレージャ公の面影があった。それに、瞳は公と同じ藤色の瞳だ。サテーリテは思わず、おお、と声を漏らした。それはまさしく、サテーリテが公の命を狙う痴れ者以上に探していた要人に他ならなかった。オスクリダドへの襲撃事件が勃発したのとほぼ同じとき、人知れず行方が分からなくなっていたシリオ公の私生児。エストレージャ家に何かがあったとき、切り札になることを期待された隠し子だ。
まさかこんなところで、向こうから現れてくれるとは。
「ご無礼をお許し下さい。私は近衛剣士隊の隊長を務めるサテーリテという者です。実はあなたの行方を追っておりました。お話は私が聞きましょう。どうぞ、こちらへ」
サテーリテは門の外の外縁の道を指示した。
これからティフォン城は血の海になる可能性がある。ここに要人を入れるわけにはいかない。それに、ピスシスにはいたずらに主の娘を近づけたくはない。
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