よみがえる恐怖人形

 数日ぶりに本当に満足するまで食べた。あれだけ泣きじゃくったわりに、自分でも驚くほど食べた。マルテは与えられたベッドに横たわり、まだ膨らんだままの腹を撫でながら天井を眺めていた。

 両親はもういない。ティエラについていく必要もない。急いでどこかに向かう必要もなくなった。これからどうするのか考えなければならない。窓に目をやるとサヒタリオが気にかけた通り、ガラスには雨粒がついている。深夜には本降りになりそうな気配だ。だが、どんな土砂降りになっても屋根の下にいる。マルテは安堵の中で、すぐさま深い眠りへと落ちていった。


 夜の深い静寂の中で、雨音が激しく地面を叩いている。気絶するように眠っていたマルテも目を覚ました。窓の外に目を向けると、思っていた以上の大雨で、風も強く木々が揺れて窓も震えていた。マルテは再び眠りに入ろうと寝返りを打った。だが、ゴロゴロとなる外の音が気になって再び目を開けた。稲光がほとばしり思わず身を竦める。遠雷が響いている。


「すごい雨」


 思わず独り言ちて、マルテは身を起こした。またしても稲光が瞬いた。そのとき、外に何か人影を見た気がした。

 気の所為だろうと考えたマルテだが、一度よぎった妙な予感が拭いきれない。マルテは起き上がり、こっそりと部屋の扉を開けた。住人は寝静まっている。幼い赤子もいる。マルテは音を立てないように細心の注意を払いながら玄関へと向かった。

 ふっと背後からマルテの口に手がかかる。驚きで心臓が跳ね上がる。叫び声を出そうとしたが当然口は塞がれていて声が出ない。


「何のつもりだ?」


 サヒタリオだ。ずっとマルテを警戒していたのか、あるいはやはり何か予感を感じて目を覚ましたのか。マルテは小刻みに首を振って、危害を加えるつもりがないことを伝える。

 サヒタリオは遠慮なくマルテの体をまさぐった。武器を手にしていないかの確認だ。マルテがまったくの丸腰であることが分かると、手の力を緩めた。口元が自由になったところで、マルテはようやく囁き声を出した。


「窓の外に人影を見た気がしたんです」


 サヒタリオが僅かに目を細める。


「まさかとは思うんですが、もしかするとあの人形が」

「私も何か気配を感じた。キミでないならその人形か」


 あの時、矢を受けた時点で人形からティエラの魂が消えていたように感じたが、本当のところは分からない。崖から落ちて水に流されてなお無事である可能性だってないとは言い切れない。


「だとしたら、どうやったら止まるんだろう」


 思わず口をついた呟きに、ひとつの予感がよぎった。すべての復讐を成し得なければ、ティエラが止まることはないのだろうか。

 奥の部屋でメルクリオが鳴き声を上げた。マルテはビクリと肩を揺らす。夜泣きか、あるいは幼いながらに不穏な空気を感じ取ったのか。ややあってメルクリオを抱いた夫人が部屋から出て来た。


「どうしたの? あなた」


 どこか不安げな夫人を見て、サヒタリオは首を振った。


「少し裏の畑が心配でね。様子を見てくる」


 夫人は何も疑う様子もなくうなずいた。


「風も強いから気を付けてね」


 夫人が部屋に戻っていくのを見届けると、サヒタリオは緊張感を取り戻して、玄関へと近づいた。片手には短剣を抜いている。外の気配を確認して扉に手を当てる。

 次の瞬間、扉から鋭利な刃が突き出した。切っ先は明確にサヒタリオの心臓の位置を狙っていた。だが、サヒタリオはとっさに身を捩って致命傷を避けた。うっすら切り裂かれた胸部から赤い血が滲んでいる。サヒタリオは怪我に構うことなく扉を蹴り開けた。勢いよく扉が開く。しかし、そこには何もいない。サヒタリオが外へ躍り出る。同時に頭上から黒い影が落ちて来た。刃の影がある。サヒタリオが短剣でそれを受け流しながら、土砂降りの中へ転がり出た。

 落ちてきた影がむくりと体を起こす。そのとき稲妻が瞬き、その輪郭を光で象った。そこに立っているのは、滑らかでほっそりとしたシルエットだった。見間違うはずもない、やはりティエラだった。しかし、その姿は酷い有様だった。

 胸には矢を受けた痕があり、体中に痛々しく削れた痕がある。右脚の大腿部は縦に半分割れており、左脚は足首から下を失っていた。右腕はかろうじて無事なようだが、左腕は前腕部を右大腿部同様に縦半分近くを欠いていて、外側二本の指もない。

 通常の人間ならまともに立って歩けるわけもない状態だ。だが、その雨粒を滴らせる木製の体は、執念のこもった力強さでしっかりと立っている。


「化け物め」


 サヒタリオが呟いた。瞼を失って開きっぱなしになった左目から瞳がポロリと転げ落ちた。指を二本失った左手でそれを受け止めて再び眼窩に押し入れる。

 見た目はまさに化け物そのものである。


「ようやく会えたね。サヒタリオ。オスクリダドの狙撃手。矢を食らったときはさすがに危ないんじゃないかと思っちゃった」


 ティエラは言い、玄関に突き刺さった剣を引き抜いた。扉の傍らに立っていたマルテとティエラの目が合う。マルテは恐怖で硬直した。ティエラをこんなにボロボロにしたのは他ならぬマルテなのだ。サヒタリオと一緒にここで始末されても不思議ではない。

 だが、ティエラはすぐにサヒタリオに向き直った。宿敵を目の前にした今、マルテにかかずらっている暇はない。


「あんたが霧の里でやったこと、覚えてる? 逆巻く炎を掻い潜って、なんとか燃える里から必死に逃げ出そうとする人たちを、高台からひとりひとり狙撃していった。まるで射的の腕を見せつけるかのようにね」

「楽しんでたとでも思うのか?」

「ううん。たぶん、何も思わなかったんだろうなって。ただ、得意のクロスボウで動く的を射ってただけ。何の感情もない。あんたはそういう人間だもん。そういえば、当時、里を出てた術師を見つけては始末していったのはあんたとカンセルなんだってね。カンセルがそう言ってた」

「俺のことをずいぶんよく知ってるらしいな」


 サヒタリオの言葉は皮肉な響きに満ちていた。ティエラはかぶりを振る。


「あんたのことなんて全然知らない。ただ、カンセルやリブラやタウロに聞いただけ」

「懐かしい名前だ」

「そんなことこれっぽっちも思ってないくせに。まぁ、その懐かしいお仲間とはすぐに遭えるよ。今夜、あんたも彼等と同じようにお星さまになるんだから」


 ティエラが剣を構える。その拍子に左目がまた落ちた。ティエラはまたそれを手で受け止め、鬱陶しそうに顔をしかめると、口に入れて飲み下した。サヒタリオはその隙にスルリと家屋の陰へと消えた。


「どこに行くつもり? 逃げる場所なんてないのに」


 ティエラの隻眼がその動きを追った。サヒタリオが消えた方は畑のある方だった。その横は射撃の練習場になっている。


「ティエラ。逃げたんじゃないよ。裏手にあるクロスボウを取りに行ったんだ」


 言ってからマルテは、自分がティエラに有利なことを口走ったことに気づいた。あれほど復讐の阻止を画策して、実際、実行に移しもしたというのに。

 結局、マルテは迷っているのだ。復讐を止めるべきか否かを。無論、マルテの心の半分は今でもティエラの復讐を止めたいと思っている。しかし一方で、里の住民を蹂躙した者たちには罪を償う機会を与えるべきだと感じ始めていた。


「そっか。自分の得意な武器で挑むつもりなんだね」


 ティエラは迷わずその後を追い始めた。


「ティエラ!」


 無意識的に後を追おうとするマルテをティエラは止めた。


「危ないよ。マルテはここにいて」

「で、でも」


 ティエラの姿も家屋の陰へ消える。ひとり取り残されたマルテは、少し迷った後に、やはりティエラの後を追った。ここまでついて来たなら結末は自分の目で見届けたい。いや、見届けなければならない。

 裏手の畑の前までやってくると、そこにサヒタリオの姿はなかった。しかし、外壁にフックで吊り下げられていたクロスボウはなくなっている。


「どこに行ったんだろう?」


 マルテが辺りを見回す。空は漆黒の雨雲に覆われていて、月も星の光もない。一歩先もまともに見えない中で、サヒタリオの姿が見つかるわけもなかった。


「どこかに潜んでいるんだ。クロスボウは飛び道具。距離を取って、どこかから私を狙い撃つつもりなんだ」


 ティエラが警戒心を強める。


「でも、見えないのは向こうも同じでしょ。それどころか距離があったら余計見えないじゃない」


 マルテが言うと、ティエラは少し乱暴にマルテを突き離した。たたらを踏みながらマルテが下がる。


「危ないから私からは離れて」

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