山頂の家

 その後はほとんど会話もなく山道を進んだ。サヒタリオの選んだ経路は比較的歩きやすかった。曰く、下の集落に用事があるときに使う道だという。山頂の家に向かうには近道もあるようだったが、おそらくはマルテのことを考えてその道を選んだのだろう。マルテは、これまで出会ったリブラとタウロとは違い、サヒタリオには危険な雰囲気もあまり感じなかった。


 マルテの足腰も限界に達しようという頃、行く手に一軒の家が目に入った。ようやく辿り着くという喜びに、マルテは体を苛む疲労が僅かに軽くなったように感じた。

 山頂の家は茂みを切り拓いて建てられた木造漆喰塗りの建物だった。想像よりはるかにしっかりとした家屋である。

 サヒタリオの帰宅に合わすかのように、玄関から女性がひとり現れた。両腕には小さな赤子を抱いている。この山奥で妻子と暮らしているというのは本当だった。夫人はマルテの姿を認めると、驚いたように眉を上げて、サヒタリオへ視線を移す。


「山に用事あったらしいんだが、迷ったんだと。これから日も落ちる。獣も出るし危険もあるから、うちで休んだ方がいいだろうと思ってな」


 サヒタリオはぶっきらぼうにボソボソと夫人に説明した。その説明は決して間違いではないが、先ほど実際に起こった出来事など、詳しい内容は敢えて伏せられていた。


「マルテといいます。突然、お邪魔になることになってすみません」

「いいえ。こんな若い女性がひとりで山に入るなんて危ないですよ。こんな辺鄙な場所でよければゆっくりしていって下さい」


 夫人は風に乗る綿毛のように柔らかく微笑んだ。胸に抱いた赤子が口をパクパクさせながらマルテに向かって焼き立てのパンのような手を伸ばしてきた。

 マルテは自然と笑顔を零して赤子の手に指を差し出す。思いの外強い力で指を握られ、マルテは思わず笑い声を上げた。


「かわいい。お名前はなんていうんですか?」

「メルクリオっていうんです」

「よろしく、メルクリオ」


 マルテとメルクリオが手と指の握手を交わす。


「さあ、疲れただろう。少し休みなさい」


 山菜の詰まった編み籠を背中から下ろしながら、サヒタリオはマルテに家に入るように促した。


「今日は獣が獲れなくてな」


 サヒタリオが夫人に告げている。獣を獲るための労力と時間はティエラのために浪費させられた。あるいは、もしかすると今日という日は最初から山にやってくる刺客を返り討ちにするために費やすつもりだったのかもしれない。マルテは内心に思いを巡らせながら、サヒタリオの背中を眺めていた。


 マルテが食卓の椅子に座って人心地ついていると、夫人が湯気の立つマグを盆にのせて運んできた。目の前に置かれると、湯気に乗って爽やかで濃厚なハーブの香りがマルテの鼻孔をくすぐった。火傷をしないように注意しながらすすると、口内からその香りが鼻に抜ける。思わず溜息が漏れる。


「裏庭で栽培してるんです。疲労に効くんですけど、香りが強いからお気に召すかしら」

「とんでもない! すごく、美味しいです」

「裏庭ではハーブの他に野菜も栽培している。加えて山で山菜やキノコも採る。大きな町のように何でもあるわけじゃないが、それでも食べるものに困ることなく暮らせている」


 サヒタリオが対面に座って、同じようにハーブティーをすすっている。


「そうなんですね」

「少し落ち着いたら庭を案内しよう」


 先にマグを空にしたサヒタリオが席を外れた。

 マルテは焦らずゆっくりとお茶を楽しんだ後に、サヒタリオの言った庭へ出た。

 裏庭には、夫妻が言っていた通り畑があり、山菜や薬草が青々とした葉を風に揺らしていた。マルテはしゃがんで、その葉のひとつに優しく振れた。これはきっと香草だ。


「こっちだ」


 ふいに声がしてマルテはそちらの方に目を移す。すると、そこにはサヒタリオが立っていて静かにクロスボウを構えている。クロスボウの先に目をやると、充分に距離の離れたところに円形の的が備えられているのが見えた。マルテは黙ってその様子を見守った。サヒタリオが引き金を引く。弦が空気を裂く鋭い音がして、放たれた矢が鈍い音を立てて的を貫いた。まったくのど真ん中を射抜いている。もし、的が矢の径とほとんど変わらない大きさでも当ててしまうのではないかという精度だった。

 見事すぎる狙撃に静かに手を叩いていると、サヒタリオがあごをしゃくった。


「やってみるか?」


 言われて、マルテは一瞬だけ迷ってうなずいた。クロスボウは自身の力ではなく、ハンドル式の巻き上げ器を使って弦を引く。これが通常の弓よりも高い威力を生み出す秘密だ。サヒタリオが弦を引き、自らの手を添えてマルテにクロスボウを手渡した。マルテは手に強力な武器の重みを感じる。


「はじめて触ります」


 サヒタリオは無言でうなずいて、マルテの背後からクロスボウを支える。引き金にかかった指にはサヒタリオの無骨な指が乗っている。武器を触るのは少し怖くもあったが、熟練の人間が後ろから助けてくれると思うと安心した。


「水平に構えて、しっかりと的を見るんだ」


 マルテは言われた通りに真剣な表情で的を狙う。


「矢はまったくの真っ直ぐには飛ばない。もう少し、わずかに上を狙う。そう」


 サヒタリオの指に僅かに力がこもる。マルテはそれが引き金を引く合図だと悟って、思い切り指に力を入れた。引かれた弦が元に戻る衝撃にクロスボウ全体が揺れる。サヒタリオが支えてなければマルテは驚いてクロスボウを宙に投げ出していたかもしれなかった。

 肝心の矢は的のぎりぎり縁に辛うじて命中していた。マルテは思わずサヒタリオを振り返った。


「はじめて触ったにしては悪くない。上出来だ。筋がいい」


 掛け値なしの評価にマルテも思わず表情を崩す。

 短い講習が終わると、サヒタリオはクロスボウを脇に置いて、マルテに目をやった。裏庭にマルテを呼んだのは、クロスボウの扱いを教えるためではない。なぜ、ティエラを連れてこんな山奥までやって来たのかだ。夫人は夕食の用意をしている。その間にふたりきりで話をするつもりだ。

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