短話 Ⅰ 『母との記憶』

遺産の分配についての話が終わり、鍵の入った封筒を手に、親戚たちでギッチリと詰まった部屋を後にする。


もう近々、この家を離れる時間だ。


その前に一箇所行っておきたい場所がある。その場所とは、親戚たちがどんちゃん騒ぎをしていた大広間だ。


僕の目当ては仏壇に参ること。


そして、その横の壁に飾られている両親の写真を見ることだった。


葬式後はどっと疲れが出たことや、楓とのこと、遺産のことなどで、ゆっくり見ることができなかったから、この家を再び出る前にしっかりと目に焼き付けておきたかったのだ。


僕は両親の写真をほとんど持っておらず、祖父からもアルバムのようなものは見せてもらったことが無い。


僕が小学一年生の時に両親と死別してからもう随分と時が経っており、二人の顔を正確に思い出せなくなることが増えてきた。特に高校に進学してからはそうだった。


おぼろげな記憶。


しかし、大広間には唯一、二人の生前の写真が飾られている。両親と過ごした記憶を思い出すことができる唯一の場所だ。


僕は大広間の襖を開けると、仏壇の方に向かって足を進め、着くと座布団に正座する。


マッチを擦り、蝋燭に火をつけ線香に火を灯し香炉に立てると、おりんを鳴らし、瞼を閉じて手を合わせる。


もう使用人による宴会の後片付けも済み、閑散としているこの空間で僕を邪魔する者など誰一人として居ない。


諸々のことを唱え終わると、瞼を開け、立ち上がる。僕は壁にかけられた遺影を見上げる。


祖父祖母の遺影の横に両親の遺影があった。


『カイ、困った時にはこうするのよ』


不意に母の言葉が、その声と当時の記憶と共によみがえる。


母は僕の指をある形にしようと、優しくその温かい手で僕の手に触れた。


『こうすれば、必ず貴方あなたを『彼ら』が守ってくれる。だから何か危ない目にあった時はこうするのよ』


次いで母は何かを唱えた。僕にはその口の動きだけが見え、声は聞こえない。幼い僕も母に続いて口を動かす。


母が微笑みながら僕に言う。他の何者にも代えることはできないほど、その顔は僕に安心感と温もりを与える。


確か、この映像は両親と死別する前、あの事故が起きるちょうど前夜の出来事だったと思う。


僕は、幼い僕が母に何かを言い抱きつくのを第三者の視点から見ていた。


あの時、確かに母は何かを僕に教えてくれた。


しかし、指で作る形、唱える言葉は何も思い出すことができない。

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