第16話 鉄窓

 胃液ごと消化物を吐き出しそうになった僕の体が、しゃがみ込みそうになった僕の身体が、僕の意思とは関係なくスッと立ち上がり、動き出す。


 また、あの僕の脳と体が切り離される感覚に襲われる。


 僕の体は勢いよく鉄製の重厚な扉を開き、個室から外通路に出る。


 月や星など全く見えない、雲に覆われた真っ暗な外界。


 新鮮な空気が鼻腔を通して僕の肺に入り、先ほどまでの吐き気をもよおす生臭い臭いから解放される。


 開いた扉を閉めながら一つ息を吐く。それは白く濁り、たなびく。


 強い向かい風と霧雨きりさめが僕を殴る。


 ふと後ろの車両の方を見た。


 暗い中、目を凝らして見る限り、この車両は20両編成。僕がいるのは後ろから5両目だった。

『ほら来た、追っ手だ』


『悪魔』が追っ手を捉える。しかし、僕には何も見えず目を凝らした。


 目を凝らしても『悪魔』が言うような追っ手は見えない。


『早く、走れ。今、対峙するのは分が悪い』


 僕の体が、僕の意思と関係なく先頭車両の方に駆けていく。


 約60メートルはあるであろう3両の外通路を、瞬く間に走り抜け、たどり着いた車両の鉄製の扉を蹴破った。


 ここではここで先ほどとは異なる異臭が放たれていた。アンモニア臭やケトン臭のような酸っぱい臭いであり、それに紛れて生ゴミが腐ったような臭いも鼻をついた。


 鉄のはらわたの中にいたのは、ぎゅうぎゅう詰めにされ、あふれんばかりの人々だった。全ての人が白色の服を着ており、大多数の服は汚れで黄ばんでいる。それはまるで死装束のようだった。


 何人かが、開かれた扉の轟音で僕の方を見た。酷く怯えた目をしていた。


『我が従者たちよ、なんと哀れな・・・』


『悪魔』が初めて絶句するような声をあげる。


『我が従者』・・・つまり、ここに詰め込まれている白装束の人々は『悪魔』たち。


この列車が収容所行きの列車であることを思い出し、この『悪魔』たちは宮内庁に捕まり輸送されている途中であることを理解する。


『悪魔』たちを掻き分け入ると、べちょっという音が鳴った。足元を見てみると、それは黄色の液体、尿であることがわかった。


『悪魔』たちはトイレにも行かされず、この鉄塊に詰め込まれていたのだ。


 元は『人間』として生活してきた『悪魔』たち。そして捕まるまで自分のことを『人間』だと信じて疑わなかったであろう『悪魔』たち。何の罪も犯していない者が大半であろう、ここに存在する『悪魔』たち。


 まるで動物たちを小さな檻に、ガス室に詰め込むように、その命を、尊厳をぞんざいに扱われている『悪魔』たち。


 僕は思わず眉間に皺を寄せた。


 僕は『悪魔』たちを掻き分けながら進んでいく。彼らは掻き分け進む僕の存在に気がつくと、僕の方を向き、自然に、まるで神に祈るように両手を合わせた。


 その目はうつろで、魂が抜けたような、まるで何かに陶酔しているような姿だった。人々は口々に僕を見てつぶやいた。


「ああ、我が主。我が神よ」


 僕の頭の中の『悪魔』は何も言わなかった。ただ、『悪魔』たちの声を僕の耳を通して聴き、『悪魔』たちの行動を僕の目を通して見ていた。


 しかし、何も言うことはない。何も言えずに頭の中の声の主はいた。黒い霧に包まれたその存在は、ただ悲しげにその鋭い目を細めている。そんなイメージが突如として僕の頭に浮かんだ。


「貴方は・・・」


 僕は頭の中の『悪魔』に問おうとする。だが、僕は目の前の『悪魔』たちを手でかき分けるので精一杯で声にならない。


 と、同時に破裂音と、何か金属が鉄の車両に当たる音が反響した。僕は思わず音がした方向を見た。


 そこにはまるでテレビでしか見たことがないような軍隊。黒の特殊装備に、目だけがかろうじて見える台湾陸軍特殊部隊のような黒いフェイスマスクをし、胸元に大きな銀色であろう十字架をぶら下げ、派手な装飾がついた金色の散弾銃を手にしている。白装束を纏った『悪魔』たちよりも『悪魔』のような見た目をした部隊。


 こいつらが、頭の中の『悪魔』が言う『追っ手』か!


 遂に視界に収めた、人間でありながら、天皇の傘下でありながら、実に邪悪な雰囲気を身にまとった存在。


 その存在は僕に嫌悪感と、恐怖を抱かせる。


 その一人と僕の視線が合う。フェイスマスクの中から覗くその瞳は『悪魔』を見下すように見下ろし、憎悪を一切隠していない。


 部隊の三人がこの車両の中に入り、金色の散弾銃を発砲する。


 鉄の空間の中で鳴り響く爆音。


 と、同時に老人、女性、子供の悲痛な叫びがこだました。


 僕には誰が撃たれたのか視界に収めることができない。僕はもう、前の車両に乗り移るため、鉄製の扉の前まで来ていたのだ。


 鉄製の扉にはガラス製の小窓が付いてはいるがノブは何も付いていない。押せど引けど、びくともしない。


『悪魔』がこの車両から逃げられないようにするために、このような構造になっているのだろう。


 僕がどうやってこの扉を突破しようか考えあぐねている間にも、発砲音と絶叫が鳴り響く。


『何をもたもたやっている。蹴破るぞ』


 僕の体が声の主にコントロールされ、扉に蹴りを入れた。と、同時に扉は前の車両の方に吹き飛ぶ。


 僕はすかさず、前の車両に飛び移った。そこにも先ほどの車両と同じように白装束で体を覆った『悪魔』たちがぎゅうぎゅう詰めに乗せられていた。それでも、この車両は先ほどの車両よりも子供の割合が多いのかある程度スペースがあった。


 僕が車両をつなぐ扉を蹴破ったことで、後ろの車両から、部隊から逃げる『悪魔』たちが流れ込んでくる。


 銃声はさらに増え、バタバタと『悪魔』が弾丸に伏す音も聞こえてくる。


 頭部や胸部を破裂させ、血を流している遺体が何層にも重なり、その上を絶え間なく引き金を引き続ける部隊が踏みつけながらこちらに進んでくる姿がチラリと見えた。


 もう『追っ手』はすぐそこにまで迫っている。


『やむを得ん。こいつらをおとりにしよう』


 頭の中の声が、苦虫を噛み潰すようにそう言った。状況としてはとっくの前から『悪魔』たちを囮にしている。


『餓鬼、先頭車両まで突き進め!振り返らず、ただ前に!』


 頭の中の声が怒号を上げ、僕は無理矢理にでも背後で蹂躙じゅうりんされている『悪魔』たちから視線を切り、女、子供を掻き分けながら前へ前へと進み始めた。


 そんな中、急に僕のズボンから飛び出し、乱れたスーツのすそが弱々しい力で引っ張られるのを感じた。僕は思わず、引っ張った主の方を見た。


「ねえ、あたしのパパとママはどこ?」


 その主は痩せ衰えた4歳ぐらいの女児だった。僕の足が思わず止まる。


「ねえ、パパとママは?」


 その顔に僕は見覚えがある。僕が見たのは、もっとふっくらとしていた時の女児の姿だったが。


「探しても、探しても、見つからないの」


 僕は女児を凝視する。


 そして僕は何も言えない。


 この女児の父親は、先ほど上半身を吹き飛ばされ絶命した。


 この女児の父親は生前に僕に家族の写真を見せてくれた。その写真に女児の姿も映っていた。


 観覧車を背景に、満面の笑顔で。


「ねえ、ねえ、パパとママはどこ?ユリ、パパとママに会いたい」


 ユリと名乗る女児は大きな瞳から涙をボロボロと流し、それは痩せこけた頬を伝って鉄地面に落ちる。女児は寝る間も惜しんで彼女の両親を探したのだろう。もしくは、ひとりぼっちで寂しくて、いきなり訳もわからない場所に連れてこられた恐怖で眠れなかったのだろう。その瞳の下にはクマが深く刻まれていた。


 僕はそんな女児を茫然ぼうぜんとただただ見つめた。


 僕と女児以外は慌ただしく、銃声によりパニックに陥り動き回っているのに、僕たち二人の空間だけ、時計の針が止まったようだった。


 この女児は、僕が殺した駅員さんの娘だった。

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