第15話 逃避

 信じられない光景を見て、時間ごと止まってしまったかのように僕はフリーズする。


 まるで夢の中にいるかのようだった。


 ハッと僕を現実に戻したのは、この空間に充満した、むせかえるような血の臭い。


 僕は夢の中でにおいを感じたことなど一度もない。


 だからそのにおいが僕が今いるのは現実であると、実感させる。


『ちッ・・・俺の新しい身体にかかんねぇように距離置いてったのに、かかっちまったじゃねえかよ。くそ、きたねぇ』


 頭の中の声が乱暴に言い放った。その後も、頭の中の『悪魔』は何やら文句を言っていた。


 しかし、僕はその内容を聞き取ることができなかった。


 蛍光灯がチカチカと点滅するこの空間で液体が床を叩く音だけが耳に入った。


 この無機質な所々錆びた部分のある鉄に囲まれたトイレの個室で、天井にべっとりとついた血がぼたぼたと地面に落ち、その音が絶えず、この空間を反響する。


 壁に散りばめられた血が地面にツーッと流れていく。


 僕の目の前には、便座に腰掛け、腰から下だけになった駅員さんの姿が見える。腰の上には飛び出した背骨が見え、太ももには長いホース状の胃が垂れ下がり、排泄物が逆流したのか、その口からドロドロと流れ出し、僕の鼻に血の匂いに混ざって悪臭が入り込んでくる。


 さっきまで普通に話していたはずなのに、今となってはただのモノと化してしまった駅員さん。


 僕はその遺体をただただ、呆然と見つめていた。


 僕の頭は、今起きていることの処理ができず同じ問いを繰り返す。


 ━何が起こっている━


 ━一体、何が起こっているんだ━


『俺様の力は、接触、非接触に関わらず視界に入れた対象の肉体を破壊できる。俺様は正面蹴りを繰り出した後、奴を視界に入れた。そのタイミングで奴の体内に『力』を注ぎ込み、肉体を破裂させたのさ』


 頭の中の声が意気揚々と語る。僕は『悪魔』の声が聞き取れながらも、その内容を完全に理解することができなかった。と、いうより僕の脳みそが理解することをこばんだ。


『お前の祖父はこの力を『神通力じんつうりき』と呼んでいたな。俺様は『悪魔』なのにな。『神の力』なんて笑えるぜ』


『悪魔』が高らかに笑う。


『悪魔』のテンションと目の前に広がる光景の温度差があまりにもありすぎて、状況が呑み込めず僕は何も反応することができない。


『そうそう、お前の祖父も初めてこの力を見た時はお前のように呆けていたぜ』


『悪魔』は僕の中にいるはずなのに、まるで僕を見ているかのように言う。


 でも、今の状況においてそれは重要なことではない。最も重要なことは・・・


「どうして貴方あなたはこんなことを?別にこの人の命を奪う必要なんてなかったのに!」


 ただ、駅員さんを制圧して、説得、もしくは気絶させればそれだけでよかったはずだ。


『お前、本気で言ってんのか?説得してこいつが俺様たちを引き渡すのを躊躇ためらうとでも?』


「説得できなくても、気絶させれば『彼ら』に相応な理由とみなされて家族を返してもらえたかもしれない!」


『甘いな、実に甘い。世間知らずの、まさしく餓鬼ガキの考えだ。こいつの家族、二人の『悪魔』は俺様たちを引き渡すことができなかった時点で確実に殺される。無論、こいつもな。『奴ら』はお前の考えているほど甘い連中ではない』


 僕は声の主の言うことに反論することができない。わかってる。『彼ら』がそんな甘い存在でないことは。


 でも・・・それでも・・


『それにな、もしこいつが運よく生き延びたとして、家族を殺されたにくしみの矛先は誰に向く?『奴ら』に向くか?多数の集団で構成された、いわば“単体では敵わない相手”に?いや、間違いなく矛先は俺様たちに向く。そしてまた俺様たちの前に現れる。もしかしたら先ほどまでより、もっと厄介な存在になってな』


『悪魔』は淡々と言葉を連ねる。嫌に理論的で、僕は納得したくなくても、納得せざるを得ない。


『“殺す”ことはな、今だけではなく未来の障害を排除するためにも“必要”なことなんだよ。“リスクマネジメント”ってやつだ。このことを覚えとけ、餓鬼ガキ


『それにな・・・』と僕の体を勝手に動かし、血だまりの上をぴしゃぴしゃと音を立てながら、あるもの、駅員さんが抜こうとしていたものに近づく。


『こいつは元から俺様たちを殺すことを想定していた。いわば追っ手だ。見ろ、この短刀。これは“悪魔殺しの短刀”文字通り俺様たち悪魔を殺すために使われるものだ。これを保持しているという事実、それだけで俺様たちがこいつを殺すのには十分すぎる理由だ』


 血に塗れた短刀は、刀身にはラテン語と思われる何らかの文字が彫られており、つかには十字架に磔にされたイエス・キリストの装飾が施されていた。


 僕はそれを見ても目に入らないほど、『悪魔』の言葉でつっかえたことを口にだす。


「貴方はさっき『俺様たちが殺した』と言った。でも、僕は殺そうとも、殺したいとも思わなかった。だから・・・」


 僕の体を動かし、能力を使い、殺したのは僕じゃない。この『悪魔』だ。


たわけ。『だから僕は殺してない』と?戯言ざれごとを言うな。こいつは他でもない俺様とお前の二人で殺したんだ』


「しかし・・・僕は・・・」


『そもそも、こいつに捕まり、殺せざるを得ない状況を作ったのはどこのどいつだ?他でもないお前だろ?お前があの時危険を察知して逃走し、この鉄塊に運び込まれていなければ、こうはならなかった。そしてそれは、『悪魔』特有の性質も発現して、十分に可能だったはずだ。』


 駅員さんを僕が殺した。殺してしまった。と言う事実は僕が一番受け入れられない、受け入れたくないことだった。『悪魔』の言葉を聞いても僕の頭は必死に否定する。


『もう、俺様とお前は一心同体だ。お前がやったことは俺様がやったことであり、俺様がやったことはお前がやったことなんだよ』


 そして『悪魔』は耳元に囁くように言った。


 ━こいつは、俺様たちが、つまりお前がその手で殺したんだよ━


 その瞬間、嗅覚がさらに研ぎ澄まされ、今までフィルターを通して感じていた血の匂いが排泄物の匂いが、鼻腔に無理矢理にでも入ってきて、さらに強烈なものとなる。


 と、同時に僕の胃の中から何か酸っぱいものが喉元に一気に込み上げてきた。


 僕は両手で口を押さえ、両膝から力が抜けそうになる。


 逃れたかった“事実”が僕を襲う。


 これまで人を殺めたことがないこの僕が?


 生命いのちを殺めるという行為を忌み嫌ってきたこの僕が?


 僕が殺してしまった?


 どうして僕はこの人を殺してしまった?


 違う。


 僕は何もしてなんかいない。


 殺してなんかない。


 殺してなんかない。


 殺してなんかない。


 僕は人を殺せる『悪魔』なんかじゃない。


 僕は『人間』なんだ。


『ハァ・・・』と『悪魔』が呆れたようにため息をつく。


『そんなことをしている場合ではない。早く逃げるぞ。そろそろ次の追っ手が来る』



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