第5話 授受

「この先は僕一人で大丈夫」

 僕はそう言って義信を離れさせた。

「かしこまりました」

 義信は再び笑顔を見せ、その場に立ち止まり、僕に道を開けた。僕は一つ会釈をする。

 僕は昔の記憶を頼りに祖父の寝室を目指し長い廊下を黙って歩いた。

 その場所が近づくにつれ、僕は3年ぶりに祖父と再会する緊張で鼓動が早まる。

 佐良の言葉などかすみ、どんな表情で祖父と対面するべきなのか、それだけが僕の頭の中を埋め尽くした。

 しばらく歩くと人影が見えた。月光に照らされたその顔が、近づくにつれ鮮明になっていく。懐かしく誰よりも見覚えのあるその顔は僕に安心感を与えた。僕は思わず笑顔を浮かべていたと思う。

「お久しぶりです。摩耶まやさん」

 僕は祖父の寝室の前にたたずむ女性に声をかけた。長い黒髪に美形の顔、スラリとした体型で黒色の和服を着ている。

 摩耶さんは僕に微笑んだ。昔と変わらない優しい笑顔だった。

「お久しぶりです、カイ様。お待ちしておりました」

 しかし摩耶さんは言葉短くそう言った。

「お祖父様は中に?」

「はい」

「容態の方はどうです?」

「今は安定しております。ですがお医者様によると、もって今日の夜までだろうと」

 僕は「わかりました」と言うと覚悟を決め、ふすまの入り口に立った。摩耶さんは襖を開け、僕をその中に通した。

 外気とは異なる暖かい空気と共に、懐かしい匂いが僕の鼻腔をくすぐる。部屋にはいくつも本棚があり、数多くの本や資料が所狭しと並べられていた。この光景は全く変わっていない。

 薄暗い部屋の中を進むと、淡くオレンジ色に光る祖父が寝ているだろうその場所に、几帳を片手で開き入った。

「お祖父様じいさま只今ただいま到着しました」

 蝋燭が儚げに、30畳ある部屋を照らしていた。

「カイ、来たか。久しいな」

 医療用ベットに横になった祖父、結城靖一が僕に顔を向け、見た。齢94にして末期癌を患っている祖父の頬は痩せこけ、厚手の布団から見える体の線もまるで骨だけではないかと思われるほど細い。三年前は精力に満ち溢れていたその瞳はすっかり弱々しいものとなってしまっていた。

 僕は三年前を、いやもっと前の祖父の姿を思い出し、目を伏せた。不意に目頭が熱くなり溢れ出しそうなものを耐え、僕は瞼を無理やり開けて祖父を見た。

「お祖父様、僕に話とはなんでしょう?」

 祖父の眼光が鋭くなる。その瞳には生気が宿り、一家の当主として生きてきた尊厳がオーラとして溢れ出す。僕は祖父のその姿に全身の毛が逆立つのを感じた。三年前の僕に厳しく接する、剣術稽古の時の祖父の放つオーラと全く同じだったからだ。

 その姿は僕が知っている三年前の祖父そのものだった。

 祖父が僕の胸に手を当てた。痩せ細った手からは考えられないほどグッと抑えるそれからは僕の知っている祖父の力強さがあった。

「カイ、お前に託す。これは必ずお前の力となり、お前を導いてくれるだろう」

 僕は祖父の言葉を呑み込むことができず、

「力、力ってなんです?」

 と問うた。

 しかし、祖父は僕の問いには答えなかった。

「お前には、これを渡すために来てもらった。渡してしまった今、もう儂に後悔は無い」

 祖父が僕の胸に当てた手から力が抜け、するすると落ちた。ぽすんと柔らかい音がなる。

 祖父は僕から視線を切ると、天井を見上げた。

「儂にとって憂慮していたことはこれだけだ。いや、本当はもっと憂慮すべきことはたくさんある。やり残したことも沢山・・・だが、残された時間がない儂が、寝たきりで何もできない儂が、お前にしてやれることなんてこれぐらいしかない」

 祖父はまるで譫語うわごとのようにつぶやいた。

「お祖父様。力って━━」

 構わず問おうとした僕の言葉が詰まる。祖父が優しく僕の左手を握ったからだ。

 祖父の視線は僕に向けられていた。

「カイ、最後に・・・昔のように儂を・・・私を『おじいちゃん』と読んではくれないか?」

「しかし、お祖父様・・・」

 僕を見つめる祖父の表情は真剣だった。

 僕は恥ずかしかった。しかし、今際いまわきわの祖父の頼みだ。断るわけにも、断る理由もない。

 一体何年ぶりだろう。祖父のことをこう呼ぶのは。僕は幼き頃には無邪気に呼んでいた親しみを込めた敬称を喉の奥からやっとのことで引っ張り出す。

「おじいちゃん」

 恐らく祖父をこう呼ぶのは最後になるだろうと、満面の笑顔を浮かべて言った。

 昔は何も思わず呼んでいたのに、今となっては顔から火が吹き出しそうになる程、面映おもはゆかった。思わず視線を祖父かららした。

 直後クスリと小さく笑う声が聞こえた。僕は思わず驚いて祖父を見た。 祖父は満足げな笑みを浮かべていた。その表情は先ほどまでの威厳のあるそれではなく、僕が幼い頃に見た、柔らかく優しい表情だった。

「カイ」

「はい、お祖父様」

「すまなかった」

 僕は祖父からの突然の謝罪に驚いた。

 祖父は僕の手を優しく握った。

「あの時・・・お前が東京の高校に行きたいと言ったあの日、ひどいことを言ってしまった。決して本心から言った言葉ではないんだ。ただ・・・」

 祖父はそこで言葉を切った。言うか言うまいか口端を動かした後、意を結したように口を開いた。

「ただ、私はお前を手放したくなかったのだ。お前をそばに置いておきたかった。私の命がもう長くはないことを知っていたから。一人になりたくなかった。息子夫婦を、お前のお父さんとお母さんや、最愛の妻を、お前のおばあちゃんを亡くした時のように」 

僕は祖父の本心を知って驚いた。祖父がそんなことを思っていたことなどつゆほども知らなかった。見抜けなかった。

 それほどまでに、今のセリフは祖父が初めてみせる弱さだった。

「カイ、私の我儘わがままをどうか許しておくれ」

 僕は笑顔でただ頷いた。目頭が熱くなり、今にも涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。

「ああ、長かった。長く生きた。お前が死んでから本当に長かった」

 祖父はまるで天国にいる祖母に呼びかけるように言った。

「のぶ子、私たちの孫は立派に育ったぞ」

 祖父の手の力がだんだんと抜けていく。

「私にできることは全てやった。もう、お前の元に行っても許してくれるよな」

 祖父が目を細めた。その目尻にはきらりと光るものが見え、全てから解放され、安心し切った安堵の表情を浮かべているように僕には映った。

 祖父の手から完全に力が抜け、その手はベッドにぽすんと音を立てて落ちた。

「お祖父様・・・?」

 僕は眠ったように瞼を閉じた祖父の姿を見て、口をぱくぱくさせ、目線を泳がせた。

 僕は何度も何度も「お祖父様」と呼びかけながら祖父の体を揺らした。こうすれば、祖父がまた目覚めてくれると思ったから。

 頭に流れ込んでくるのは祖父との淡い記憶。厳しく優しい祖父の姿がスライドショーのように流れ込んでくる。

 まだ話したいことがあった。沢山あった。祖父との思い出や、高校での出来事、大学に合格したこと、沢山、沢山あった。

 祖父ともっと二人で話したかった。

「おじいちゃん、おじいちゃん」

 僕は両目から大粒の涙を流しながら、祖父の体をただ揺らした。不意に手が滑り、祖父の手に再び触れた。

 僕はその瞬間、全てが叶わない夢と化したことを知った。

 僕の体から力が抜けていく。脳みそに後悔だけがこびりつく。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る