第3話 回顧録


 森林の中にそびえる1000坪越えの屋敷。そこが祖父が所有する家であり、現在向かっている場所である。

 中央に池があり、ジグザグの八つ橋が3邸の屋敷と道場を繋いでいた。

 僕が生まれた時から小学1年生までは東京に住み、その後、東北にあるこの場所に移り、高校進学を機に再び東京へと移った。

 この場所で祖父である結城靖一ゆうきせいいちが僕の面倒を見てくれていた。

 祖父はこの地域の豪族の家系の生まれであり、かつて政治家としても活躍した人物であったという。祖父の手腕は確かなものであったということを、使用人の一人である穂積信広ほずみのぶひろが教えてくれた。

 しかし、決して祖父の口から直接、僕にそのようなことを言うことはなかった。

 僕にとって祖父は慎み深く、厳格で、しかし、優しいおじいちゃんであり僕が尊敬する人だ。

 僕は遠い記憶を思い出す。

 祖父は、僕が東京からこの場所へ正月とお盆に通っていた時、つまりはここに住む前はそこら辺にいる、僕の友人などの、ありふれた『おじいちゃん』像そのままの人物だった。

 ただ優しく、甘やかしてくれるおじいちゃん。僕が欲しいと言ったおもちゃをすぐに買ってきてくれるおじいちゃん。僕が転んで怪我をしたら、あたふたして駆け寄り、「痛くはないかい?」と、膝をつき、手当をしてくれるおじいちゃん。

 僕が「おじいちゃん」と呼ぶと「なんだい」と優しく微笑んでくれるおじいちゃん。

 でも、そんなおじいちゃんは僕が両親の死をきっかけに、ここに移り住んだとともに一変した。

 甘やかすことなどなく、僕が欲しいと言ったおもちゃは「無駄だ」と買い与えることは無くなった。その代わり勉強をすることを強いて、買い与えるものは本。

「おもちゃなんかより、知識こそがお前の力になる」

 それで僕は友達との遊びについていけなくなった。友達は最新のおもちゃを、ゲームを持っていたから。

 僕が転んで怪我をしても、駆け寄ることなどなくなった。むしろ

「何をしている。日本男児たるもの泣きべそかかずよ立て」

 と、冷たく言い放ち、僕を見下ろした。ものすごく冷たい眼差しだったのを覚えている。僕はやりたくないのに剣道、柔術の稽古をつけられ転ぶとめったうちにされた。

「早よ立て。その一瞬で死ぬぞ」

 何度、あざができただろう。でも祖父はそんな僕を気にすることなく、稽古を行なった。

 そんな祖父の稽古が嫌になることがなかったか?

 そう聞かれれば確かにある。逃げ出したくなることも何度もあった。

 それでも家出したいと思うことはなかった。

 使用人の子と仲が良かったと言うこともあったが、何よりも僕は祖父のことを尊敬しており、祖父が僕にほどこしてくれる教育は何よりも僕のためにやってくれているという自覚があった。

 いつも祖父に打ち倒される時に浮かぶ、叱咤を受ける時に浮かぶ、僕が幼き日の祖父の姿。

 夢か現実かもわからない祖父のその後ろ姿が僕の瞼に刻まれていた。

 祖父は僕にとって目標とする人物だったのだ。

 全ての肉体に、精神に受けた痛みはそんな祖父のようになるために必要なことだと思っていた。

 そうして中学3年生の時、学問の成績が良かったことも相まって東京の有名進学校に通うことを決めた。担任教師からの勧めということもあったが、何よりも記憶が薄い幼少期を過ごした街、僕の両親と過ごした街を、成長した自分のこの目で見てみたいという想いが強かったのだ。

 もちろん、東京という娯楽にまみれた街で華やかな高校生活を過ごしてみたいという想いもあった。というか、そっちが本音だった気がする。

 僕がその意思を祖父に伝えると、烈火の如く怒った。冬場で冷たい風が入り、床が凍えるほど冷え切った道場に一瞬にして熱気が満ちた。僕にはなぜ祖父がそこまで怒ったのか理由がわからなかった。

「お前が、あの忌々しい場所に行くことは許さん」

 僕が『東京』というワードを出した瞬間にそう言った。僕は圧倒されながらも自らの意思を、臆することなく真っ直ぐ伝えた。

 祖父は素早く木刀を手に僕に斬りかかろうとした。僕も瞬時に木刀を持ち、その攻撃を防ぎ、受け流した後、コテを軽く叩いた。

 当時、齢85歳の祖父の手から木刀が落ちた。黒袴の袖から見えた祖父の前腕はいつの間にか以前よりも一回り細く、弱々しいものとなっていた。

 それでも僕は油断をせず、素早く中段で構えた。追い詰められた敵は、たとえ武器を取り落としたとしても攻撃を仕掛けてくる、そう教わっていたからだ。

 だが、その時、僕は不覚にも祖父の何も持っていない手から、その顔にゆっくりと視線を移してしまった。

 そんな僕の行動を、東京へ行くと言ったことも相まって祖父はさぞ鬼のような形相を浮かべているであろうと考えた。

 祖父の表情は笑顔だった。幼き頃の自分にむけていたように優しい微笑みを浮かべていた。

 その表情は僕が

「僕もおじいちゃんみたいになる!」

 といつの日か言った時のもの、そのままだった。

 しかし、祖父の表情は一瞬にして豹変する。鬼の形相へと再び変化すると、

「お前があの忌まわしい場所に行きたいのなら好きにすれば良い」

 と、言い放った。

 祖父はくるりと僕に背を向けた。僕は中段に構えた木刀の剣先を祖父に向けたまま。

「卒業と同時に出ていけ。その後は二度とわしに顔を見せるな」

 祖父の背中に大きく描かれた結城家の家紋が遠ざかっていく。そして遂に道場のふすまが開けられ祖父の姿が見えなくなった。

 まるで時が止まったかのように構えていた僕の全身から力が抜け、木製の剣先が同じく木製の床にコトンと当たる音で我に帰った。

 僕の頭の中では祖父の笑顔と鬼の形相が交互に映り、その直後に発せられた絶縁宣言とも取れる言葉が反響していた。

 開けっぱなしにされた襖の奥から例の使用人のが、物悲しそうな表情で横目に僕を見ていた。

 その時僕は、祖父が笑顔を浮かべたあの一瞬、彼女と同じように悲しげな視線をむけていたことに気がついた。

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