2.


「あぁ?誰だてめぇ……」


 男が低く唸るように言う。


「子供はこのような状況で極限状態に陥ると、嘔吐する可能性があります。あなたは今、人質である女の子を担いでいる状態なので、その子が嘔吐したら背中は汚物でまみれますよ?それは、あなたにとっても困る事ではありませんか?なので……」


 ゆっくりと言葉を綴りながら、奏が男に近寄る。そして、男の近くまで来ると、男のナイフを握っている手を持ち、自分の顔に近付ける。


「私が人質になります。だからその子は解放してあげてください」


 奏の言葉に男が戸惑うような顔を見せる。


「……いいだろう」


 男がそう言うと、ナイフを奏に向けたまま、女の子をそっと降ろす。


「ママのところに行ってください」


 奏が女の子に優しい笑顔でそう言葉を告げる。


「里穂!!」


 母親である女性が叫ぶ。女の子が駆け足でその母親の元に走って行く。



 現場は奏が人質になり、辺りは騒然としていた。


 男が車道辺りまで出ると、その近くで路駐していた車の運転手に降りるように言い、運転手が状況を見て、車から転がり込むように降りる。その代わりに男が奏を連れたまま運転席に乗り込むと、その場を走り去っていった。




「大変です!誘拐事件です!!」


 警察署に掛かってきた一本の通報を聞き、署内が動きだした。


「人質になったのは若い女性だそうです!どうやら、最初の人質になっていた女の子の代わりに人質になったんだとか……」


「はぁ?!身代わりになったって言うのか?!」


 まだ若めの刑事である杉原すぎはらの言葉に少し年配の刑事である本山もとやまが驚きの声を上げる。


「それで犯人は?!」


「車を奪って逃走中です!」


「追うぞ!!」


「はい!!」


 本山の言葉に杉原が返事をして、追跡に向かった。




「……入れ」


 男が低い声で静かに言う。


 奏が連れてこられた場所はどこかの山の中にある一つの小屋だった。男は奏を床に座らせると両手首と両足を縄で縛り、柱に固定した。


「どうして、こんな事をしたのですか?」


 奏がそう男に問う。


「あんたには関係ないだろ……。それより、あの子はあんたの知っている子なのか?じゃないと、身代わりなんてしないだろ?」


 男がそう疑問を投げかける。


「いえ、全く知らない子です。会った事も話したこともありません」


 男の疑問に奏が正直に答える。


「じゃあ、全くの見ず知らずの他人のために自分の命を身代わりにしたのか?はっ!馬鹿な奴だぜ!赤の他人のために自分の命を投げ出すとはな!」


 男が馬鹿にしたように笑う。


「でも、あの子はこれからの世代の子供です。あんなことで命を散らせたくなかったんですよ……」


 奏の言葉に男が笑いを止める。


「何綺麗ごとを抜かしてるんだよ。あの子もいつかは女になる。どうせ、女なんてろくでもない奴ばかりだろ……。どうせ、俺みたいなやつは女から見たら金を毟り取れる都合のいい男だしな……」


「……女性に騙されたのですか?」


 男の言葉に奏がそう聞き返す。


「あの女の子だって大人になりゃ男をだます女になっていたかもしれないだろ……」


 男の言葉に奏は何も言えない。


 もし、この男が女性に騙されていたのだとしたら「そんなことはない」とは言えなくなる。女性でも男性でも「人」はそれぞれ沢山のタイプの人がいる。勿論、その中には平気で騙す人だっている。


「あなたの気持ちは分からなくありません……。私もいろんな人に騙されてきましたから……」


 奏の言葉に男の目が見開く。


「……あぁ、だからあんたも死んでもいいってわけか……」


「いえ、それは違います」


 男の言葉に奏がはっきりと否定する。


「私が代わりに人質になったのはあの女の子を助けたかったからだけです。確かに、無謀な行動かも知れません。人によってはお人よしだという人もいるでしょう。でも、それでも私はあの現場に居合わせて放っておくことができなかったんです……」


 奏がどこか辛そうな表情でそう言葉を綴る。


 あの場面で大半の人がまず身代わりになろうとは思わないだろう。野次馬によってはどうなるのかを見たかっただけの人もいるのだろう。世の中そんなものなのかもしれない。


『自分さえ良ければ他人がどうなろうと構わない』


『自分さえ幸せであれば他人が辛かろうが苦しかろうが手助けをする気はない』


「確かに、世間には自分さえ良ければって言う人が沢山います。苦しむ人に手を差し伸べずに、自分が……自分だけが幸せなら他の人がどうなろうと構わないのかもしれません……。悲しい話ですが、それが世の中の道理かもしれませんね……。他人の不幸を嘲笑う人……。他人の不幸を見て幸せを感じる人……。でも、世の中には苦しむ人のために必死で活動している方も沢山いるんですよ?数は少ないかもしれませんが、そういう人たちも必ず存在しています…。もし……もし良かったら……」


 奏がそこまで話して、一旦言葉を切る。男は何も言わずに奏が綴る言葉が何かを気になっている感じだ。


「もし、良かったら何があったのかを話して下さいませんか?」


 奏がそう言葉を綴った。




「……車の場所が分かりました。乗っ取られた車には被害者が何かあった時のためのGPS機能を付けていたのでそれを追跡しましたところ、ここから東の方に行ったある山小屋の近くに車を停めていることが分かったそうです」


 杉原が送られてきた情報を読み上げる。


「よし!俺たちもその小屋に向かうぞ!!」


「はい!!」


 本山の言葉に杉原が返事をして、二人で車に乗り込むと、現場に向かって走り出した。




「……俺には付き合っている女がいた。その女はこんな俺を好きだと言って付き合おうと言った。そして、俺のアパートで一緒に暮らし始めて、いつかは結婚するために俺は必死に働いた。女が結婚式もあげたいと言っていたからな……。その資金を稼ぐために俺は毎日毎日汗水を流して働いていたんだ……」


「その女性の方も働いていたのですよね?」


 男の話に奏が聞く。


「いや……、あいつは家のことは自分がするからと言って働きには出なかった。金の管理もあいつに任せていた……。時々、いくら貯まったかは見せてもらっていたけどな……。そして、資金がかなりたまったころだ……。いつものように俺が仕事を終えてアパートから戻ってきたら、部屋にあいつが居なくて金目のものもなくなっていた……。もしやと思い、通帳を入れてある引き出しを見たら、その通帳もなくなっていた……。俺は騙されたと思ったよ……。全財産を持っていかれて、俺は絶望的になった……。あいつの居場所を突き止めたくても、考えてみれば実家が何処なのかも分からない……。携帯も繋がらない……。だから……、俺はもう終わりなんだ……。だったら、復讐代わりに誰かを道連れにしようと思ったのさ……。笑っちまうだろ……?ははっ……」


 男が自虐的に笑う。しかし、その顔は悲痛な表情を浮かべていた。


 信じていた人に騙されていて、何も……誰も……信じることができなくなった可哀想な男……。


「笑えるわけ……ないじゃ……ない……ですか……」


 奏の声が震えている。


「……なっ?!」


 男が奏の顔を見て声を詰まらす。


 奏は大粒の涙を流しながら泣いていた。


「酷すぎます……。だって……あなたは必死で頑張って働いていたのでしょう?それなのに……それなのに、その人のせいで人生を狂わされて……。だって……だって、そんなことが無かったらあなたはこんな事件を起こすことも無かったのに……。私は許せないです……。そんな心無いことする人が……。絶対……絶対……許せないです……」


 奏が涙を流しながら見知らぬ相手を強く憎む。


「あんた……なんで、そんな他人のために泣けるんだよ……」


 男が「よく分からない」と言う感じで不思議そうに奏のことを見つめる。


「だって……だって、酷過ぎるじゃないですか……。その女性がやったことの方が悪いのに……。酷すぎます……。酷すぎる……」


 奏がボロボロに泣きながらそう言葉を綴る。



 その時だった。



「犯人に告ぐ!お前は完全に警察が包囲している!大人しく投降しなさい!!」


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