扉が隔てようと声は繋がる
3章 1話
物音が落ち着き、扉の奥から小さな声が聞こえる。
『ごめんなさい、ごめんなさい、七草兎さん……』
小さく、耳を澄まさなければ聞こえないぐらい――部屋の隅で泣きながら呟くような声だった。
「僕がほしいのは、謝る言葉じゃないかな」
『……それなら、私はどうすればいい、ですか? 私の問題、聞いたんですよね? だから、七草兎さんと恋人らしいこともできない私なんか――』
「――チャットアプリの僕のアカウントさ。もうブロックするなり、消すなり……しちゃった?」
最愛の彼女の言葉を遮り、尋ねる。
僕が聞きたい君の声は、そんな罪に苦しむような声じゃないんだ。
『……消してない。全部、メッセージ見てる』
「そっか。よかった」
僕はスマホを操作し、ブックマークしてたURLをチャットアプリで送信した。
ポンッと、部屋の中から受信の音が聞こえてくる。
『……これ、声劇台本?』
「そう。ごめんね。君のお姉さんや、お父さんに格好つけて、ここまできたんだけど……。これしか、僕には思いつかなかったんだ」
『なんで、声劇を……』
「君が一番、幸せそうに笑ってたのはさ……。劇を演じてるときだったじゃん」
愛知県から東京まできて……。
家族に啖呵を切ってこれかとは、自分でも思う。
「この台本の人物は、笑わないとできないよ? コミカルな台本だからね。僕はもう読み込んできたけど、波希マグロさんは、この登場人物に憑依できるかな?」
でも――これが一番、彼女が喜ぶと思ったから。
扉越しに、誰にも披露することのない演技をしよう。
二人だけの、思うがまま自由にやれる楽しい劇を、さ。
『……待ってて。今、ちゃんと読むから。涙を拭いて、ちゃんと演じるから』
ほら、君は乗ってきた。
君は演技を愛してるからね。
きっと、これなら一緒に前を向けると思ったんだ。
こんなにも演技を愛し、演技に真剣な彼女から全てを奪うような真似をした連中に腹が立つけど……。
まずは君が笑えるようになることが先だ。
僕も、君を追い詰めて泣かせる原因になっちゃったんだから。
『いける。もう大丈夫』
「了解。じゃあ最初は波希マグロさんのセリフからだから、僕がキュー振りするね」
『うん』
気合いがこもった、力強い声音だ。
「三、二、一、アクト――」
緊張する時間が流れる。
劇前のキュー振りは、いつもそうだ。
『――おかしいです! 先輩はおかしい! 変態です!』
「せめて変人って言ってくれないかな? それで、俺の何がおかしいって?」
扉越しに、張りのある君の声が聞こえる。
スピーカー越しより余程、心に響く。
『学校に、うどん、そば、そうめんの三食弁当を持ってくるからですよ!』
「ああ、なるほど。俺も迷ったんだよ」
『そうですよね、さすがにそうですよね!? 迷ったなら――』
「――冷やし中華を入れて四食にしようかってさ」
こんなにも妙な……。
何も考えないような声劇台本なのに、深く考えたくない今は丁度いい。
彼女も楽しそうだし、一本目はこれで良い。
相変わらず僕の演技は、幅もなくて下手くそだけど……。
君は、こんな人物を演じるのすら上手いね。
そうして演技は進んで行き、五分で終わるような短いコミカル台本を演じ終わった――。
「――ありがとう、どうだった?」
『……楽しかった。変な物語なのに、演技ができて凄い楽しかった!』
本当に、嬉しそうな声だ。
この距離で君との生声劇なんて、僕だって嬉しくてどうにかなっちゃいそうだ。
生の波希マグロさんの声の破壊力は、本当に凄い。
「よかった。次は、ちゃんとした台本をやろっか?」
『うん、私も探すね! ……あ、いや。私……。七草兎さんと、こんなことをする権利なんて……』
「そういうの、いいよ。僕は波希マグロさんと演じたいんだ。一緒に劇、付き合ってくれないかな?」
『……うん。うん、ありがとう』
次は彼女が選んだ台本の劇で……。
僕たちは、交互にやりたい台本を話し合いながら、演じていく。
色んな人物になり、様々な登場人物に憑依して世界に没入する。
「次は、とびきりハッピーエンドのやつが演じたいな」
『了解! タグ付けて検索しよう!』
「……あ、これなんか良さそう。四十分台本で、女性は兼ね役が要るけど」
『どれどれ!? 任せて、演じ分け頑張るから!』
すっかり元気になった彼女の声に、思わず笑みを浮かべる。
君の元気の源は、演技なんだなってさ。
彼女に台本へのリンクを送信すると、静かに階段を上ってくる凪咲さんと、お父さんが見えた。
二人はジェスチャーで、時計を見ろというような動きをしてくる。
スマホの画面を見ると……もう夜の八時を過ぎてる!?
彼女と過ごす時間が嬉しすぎて、時を忘れてた……。
八王子駅を出る終電は、夜九時頃だったはず。
乗り遅れたり乗り継ぎに失敗したらまずいからと、注意にきてくれたのか。
名残惜しいけど……。
「……ごめんね、波希マグロさん。終電が近いみたいだ」
『あ……。そっか、そう、だよね。私、夢中になってて……。本当は、謝らないといけないことが――』
「――また、ここに来てもいいかな?」
―――――――――――
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