第3話 村瀬紅子の感

タクシーの車内には、エアコンの微かな音と紗月と悠希が交わす楽しげな声が響いていた。窓の外では京都の街並みが流れていく。


紅子は目を細めながら前方に座る紗月をじっと見つめていた。


(……おかしいわね……)


心の中でつぶやきながら、紅子は再び思考を巡らせる。陰陽師協会を出る時に凛から、京都駅に橘家の関係者が迎えに来ると聞いていた。

その話を受けて、改札で紗月を見た瞬間に「強い陰陽師だ」と確信を持った。


それで紗月を橘彩花と勘違いしたのだ。


紅子にとっての“感”とは、村瀬の家系が代々卜占を生業としてきた背景から培われた曖昧な能力だった。しかし、多くの任務や実戦を経て、人の表情や仕草、微妙な挙動を読み取る洞察力が研ぎ澄まされ、相手の強さや、真偽を見抜く力へと昇華された。


それゆえに、紅子はその“感”に絶対的な自信を持っていた――これまでは、である。今回ばかりは、その確信が揺らいでいた。


(陰陽師じゃない……術も使えない……そんな馬鹿な…)


しかし、紗月のその言葉が嘘ではないことも、紅子は感じていた。


紅子は紗月の背中をじっと見つめる。どうしても腑に落ちない。その様子に気づいた悠希が横の座席から言った。


「紅子さん、どうしたんですか?さっきからずっと黙って……」


「いや、なんでもない……」


紅子は短く答えたものの、納得がいかず、思わず紗月に声をかけた。


「ねえ、紗月ちゃん……」


「はい?」


紗月が振り返り、紅子を見た。


「陰陽師じゃないんだよね?だったら…なんか武道の達人だったりしない?」


紅子の真顔に、紗月は一瞬きょとんとした。

そして、次の瞬間には吹き出して笑い始めた。


「ふふっ、村瀬さん、急に冗談なんて言わんといてください!!」


「……冗談じゃないんだけどな……」


紅子は首を傾げるしかなかった。


(外れた……? いや、そんなはずないんだけど……)


紅子は自分の感覚を疑うことができず、再び窓の外に目を向ける。タクシーは動物園前の交差点を曲がり、目的地である橘家の屋敷へと近づいていた。





大野悠希おおのゆうきは、橘家の広い客間で紅子の後ろに控えつつ、周囲から突き刺さるような冷たい視線を感じ、背中にじっとりと冷や汗を滲ませていた。


(な、なんで…こんなことになったんだ…?)


畳の上には橘家の親戚一同が整然と座り、その中心には当主の橘宗近たちばなむねちかがいる。


重厚な羽織をまとった宗近は、鋭い目つきで紅子と向き合っていた。


一方、村瀬紅子むらせべにこ。悠希と共に陰陽師協会から派遣された二級陰陽師だが、その態度には全く遠慮というものがない。紅い髪を一つに結んだ彼女は、堂々と宗近と視線を交わしていた。


「はっきり言わなければわかりませんか?協会が関わる以上、調査はこちらが主体でやらせていただきます。」


紅子がさらりとそう言い放った瞬間、悠希は思わず息を呑んだ。その一言が部屋の空気を一変させたのを感じたからだ。


「……協会の方針は理解した。しかし、これは橘家に関わる重大な問題だ。調査の内容や動きについては、橘家の判断を仰いでもらわなければ困る。」


(や、やばい、なんだこのピリピリした空気……!)


橘家の親戚一同がざわつき始める。中にはあからさまに協会を嫌悪する視線を向ける者もいた。


「それは無理な相談ですね。封印が壊れた影響が京都全域、下手をすれば日本全体に及ぶ可能性がある以上、橘家だけで解決できる問題ではありません。」


紅子は全く引かない。それどころか、さらなる追い打ちをかける。


「協会が責任を持って調査を進めます。それに特級陰陽師も合流予定です。橘家の方々には協力していただくだけで十分です。」


(あぁ……紅子さん、もっと柔らかい言い方はないんですか……)


悠希は心の中で叫んだ。何か口を挟むべきかと思ったが、宗近の鋭い目が紅子に向けられているのを見て、体が固まってしまった。


宗近は少し間を置き、静かに息を吐いた。そして、冷たく抑揚のない声で答える。


「なるほど。つまり、橘家は余計なことはせずに、協会の指示に従えというわけか。」


「ええ、その通りです。陰陽師協会がこの国の霊的防衛の責任を負っている以上、当然の話でしょう?」


(紅子さん…も、もう、やめてください…周りからの視線が痛すぎます…)


紅子の態度は変わらない。悠希はそのやり取りを見ながら、ますます居心地の悪さを感じていた。宗近の眉が微かに動くたびに、背筋に冷たい汗が流れる。


親戚一同も次第にざわつき始め、「協会に好き勝手されてはたまらない」といった声が上がる。


(やばいやばいやばい……完全に火花散ってる……!)


宗近は少し間を置き、静かに息を吐いた。そして、不敵な笑みを浮かべながら口を開く。


「いいでしょう。その代わりではないですが、当家の彩花を連れていってもらえませんか?なに、協会入りを目指す娘に勉強になればとのほんの親心です。」


その提案に悠希は驚き、紅子の返答に耳を澄ませる。


「なるほど……それはかまいません。」


紅子はすぐに返答したかと思うと、間髪入れずに続けた。


「でしたら、紗月ちゃんもお借りしていいですか?」


(えっ……紗月ちゃん?紅子さん、何考えてるんだ……?)


悠希は心の中で驚きつつも、紅子の意図が全く読めなかった。親戚たちの視線が再びざわつき始める中、宗近は一瞬目を細めたが、すぐに頷いた。


「紗月を……?連れて行っても役に立つとは思えませんが……まあ、いいでしょう。」


やり取りが一段落し、部屋の空気が少しだけ緩んだ。その瞬間、悠希はようやく息をつくことができた。だが、その額には冷や汗が滲んでいる。


(なんとか収まった……のか?いや、これからが本番だな……)


悠希は心の中でそうつぶやきながら、ふと紅子の横顔を見る。その表情には何か考えがあるような気がした。


(紅子さん……一体何を考えてるんだ……)


「彩花、聞いた通りだ。協会の村瀬さんと大野さんについて行きなさい。しっかり指示に従って経験を積ませてもらいなさい。それから、お二人を部屋に案内して差し上げなさい。」


「はい、お父様、わかりました。」


彩花は頭を下げ、紅子と悠希に向き直って軽く挨拶をした。悠希はぎこちなく頭を下げ返す。


紅子は余裕の笑みを浮かべながら、軽い口調で「よろしくね」と言った。


彩花が案内する先をついていきながら、悠希は橘家の屋敷の立派さに圧倒されつつも、先ほどのやり取りを振り返っていた。


(結局、紗月ちゃんまで連れて行くことになったけど……どう考えてもおかしいだろ……)


やがて、案内された部屋に到着すると、彩花が扉を開けて二人を中に通した。悠希は一礼しながら部屋に入る。


「それでは、また後ほど封印の件について詳しくお話をさせていただきます。」


彩花がそう告げて部屋を出て行く。その瞬間、悠希は堪えきれず声を上げた。


「紅子さん!紗月ちゃんを連れて行くってどうしてですか?一般人を連れ回すなんて危険すぎますよ!もし何かあったらどうするんですか!かわいそうですよ!」


勢い込んで言ったものの、紅子は驚くどころか、ニヤリと笑みを浮かべる。


「なんだ、悠希。紗月ちゃんに惚れたのか?」


「ち、ちがいます!!」


悠希の顔が真っ赤になる。必死に否定するものの、紅子はその様子を楽しむかのように肩をすくめた。


「まあまあ、落ち着きなさいって。ただ、紗月ちゃんが何もない普通の子だとは、どうしても思えないのよね。私の“感”がそう言ってるの。」


「ま、また“感”ですか…?でも……紗月ちゃん、陰陽師じゃないって言ってましたよね?それに、もし万が一のことがあったら……」


悠希が必死に食い下がろうとする。しかし、紅子はその声を遮るように、真剣な表情で彼を見つめた。


「だからこそ、私たちが守るのよ。悠希だって結界術を学んだのは、誰かを守るためでしょう?」


その一言に、悠希はハッとして言葉を詰まらせる。


「……わ、わかりました。」


仕方なく頷く悠希を見て、紅子はふと険しい顔つきになり、独り言のように吐き捨てた。


「それにしても……親心なんて言ってたけど、あの狸ジジイ、どうせ彩花ちゃんに監視させるつもりよ!舐められたもんだわ!」


「えっ……陰陽師協会に入りたいからってことじゃ……」


悠希が恐る恐る反論しようとするが、紅子は即座に否定する。


「んなわけないでしょ!好き勝手させないように首輪をつけたのよ!監視役を押しつけてきたんだから!」


悠希は紅子の言葉に唖然としながらも、橘家と協会の複雑な関係を改めて実感し、深くため息をついた。





そして、とうの紗月は、まさか調査に同行することになるなんて知る由もなく、鴨川沿いを自転車で全速力で駆け抜けていた。清雅をなんとか振り切ろうと、額に汗を浮かべながら必死にペダルを踏み込む。


「いやや……なんで買い物にまでついてくるんよ!」


背後を振り返ると、どこまでも飄々とした様子でついてくる清雅が視界に入る。その余裕たっぷりの顔が、紗月の焦りをさらに煽った。


(やっぱり妖やないんか!?ほんましつこいわ!)


紗月は歯を食いしばり、さらに力を込めてペダルを踏み込む。鴨川の風景が次々と後ろへ流れていくが、清雅は少しも離れる気配がない。


「そんなんやからストーカーや言われんねん!」


「ストーカーなんてひどいなぁ。ただ紗月が危険な目に遭わないよう見守ってるだけなのにさ。」


呑気に返す清雅に、紗月は苛立ちを隠せない。


「見守るとかいらんわ!うちには危ないことなんて何もあらへん!」


紗月は息を切らしながら自転車を勢いよく停め、錦市場の入り口にたどり着いた。乱れた息を整えながら振り返るが、やはり清雅はそこにいる。軽い調子で微笑む彼に、紗月の眉間に深いシワが寄る。


「ほらほら、そんなに怒らないで。さっ、早く買い物行こう。夕飯の支度に間に合わせないとまずいよ。まずは乾物屋さんからだ。」


「なんであんたが仕切っとんねん!!」


紗月の怒声が錦市場の喧騒にかき消される中、清雅はどこ吹く風といった様子で微笑み続ける。夏の空には蝉の声が響き、二人のやり取りをさらに淡々とした風景に溶け込ませていった。

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