第2話 来訪者
朝の光が差し込む中、板の間には張り詰めた空気が漂っていた。机の上には和紙と筆がずらりと並び、世話役たちが総出で霊符の作成に取り組んでいた。
昨日の封印が解けた騒動で、大量に失われた霊符を補うため、早朝からの作業が続いているのだ。霊符が足りなければ、次の妖の襲撃に耐えられないかもしれない――その思いが、誰も無駄口を叩くことなく、手元の筆を動かし続けていた。
その中で一人、紗月だけが異彩を放っていた。
彼女の手は和紙の上を流れるように動き、墨が美しい線と文字を描き出していく。その速度と正確さは、幼い頃からの継続に裏打ちされたものだ。彼女は休む間もなく次々と霊符を仕上げていく。
(この霊符が少しでも役に立つなら、うちはどんだけでも書いたる……。)
「おお、これはこれは、なかなかやるなー」
そんな時に背後から聞こえる間の抜けた声に、紗月は手を止める。案の定、声の主は清雅だった。彼は霊符を覗き込みながら、さも感心したように相槌を打っている。
「ほうほう、ほうほう。ほぉ、これはなかなか、ふむ、ふむ。」
清雅はまるで自分が師匠のような態度で、紗月が書いている霊符に顔を近づけてきた。彼の鼻息が和紙を揺らしそうなほど近い。
「ちょっと、邪魔せんといて! 今、忙しいんよ!見たらわかるやろ!」
思わず大声を上げた紗月。だがその声は清雅ではなく、他の世話役たちの耳に届いた。
「なんや、邪魔とは!」
怒鳴り声と共に現れたのは
「早う出来た符を渡さんか!」
紗月は慌てて頭を下げる。
「す、すんまへん! 違うんです、和助さんに言うた訳と違います……」
必死に弁解する紗月だったが、その後の視線は明らかに誰もいない空間を睨んでいる。それを見た和助は深いため息をついた。
実際、清雅の声も姿も紗月にしかわからない。
それゆえに、紗月が誰もいない空間に向かって会話したり、時には睨みつけたりする様子は、周囲の目には奇異に映る。
他の世話役たちは昨夜の妖との戦いで、紗月が蔵まで追い詰められた恐怖のせいで気が触れたのではないかと囁き合っていた。
「もうええ、こんだけ作ってくれれば十分や。」
やがて、和助がそう言って作業を打ち切る。
「紗月、急いで京都駅まで協会の方を迎えに行ってくれ。暑いから行きもタクシー使ってええから。」
「わ、わかりました。」
頭を下げる紗月だったが、その直後、チラリと清雅を睨みつける。
その何もない場所を睨みつける紗月の様子に、和助は何も言わず、今日何度目かわからない、ため息を吐くばかりだった。
「もう何なんや!清雅のおかげで和助さんに怒られたやないか、さっさと鏡の中に戻ってや!昨日からずっーと付いてきて…ただのストーカーやん!」
声を押し殺して清雅に文句を言う紗月。だが清雅はどこ吹く風。
「ストーカー…もしかして新しい
「妖やなくて、めっちゃ迷惑な人のことや。それにアンタの存在も、うちからみたら新しい妖やけどな!!」
紗月は小さくため息をつきながら、協会から派遣された陰陽師を迎えに行くのに、机の上を片付けた。
真夏の土曜日の昼下がり、京都の街には蝉の声が響き渡り、うだるような暑さが漂っていた。夏休み初日とあって、家族連れの観光客が四条通りから京都駅周辺まで溢れている。駅の構内も大混雑で、行き交う人々の熱気がさらに気温を暑く感じさせていた。
紗月はタクシーを降り、改札前の案内板を見上げながら汗を拭った。日傘を差しても容赦ない日差しが肌を焼き付けてくる。
「聞いてた新幹線の時間やと、もうすぐ改札から出てくるはずやけど……」
観光客の波に揉まれながら、紗月は指定された時間を思い出し、改札に目を凝らす。鞄の中には最低限の荷物と、何かあったとき用の霊符。とはいえ、彼女の心は不安と好奇心が入り混じっていた。
(陰陽師協会の陰陽師ってどんな人達なんやろ……彩花様や雅彦様みたいな人やろか。それとも全然違う感じなんかな……)
ぼんやりとそんなことを考えていると、頭の中に突然、別の声が響き渡った。
(えっ、みんな同じでしょ。だって霊力が溢れてる人いないからねー、でも紗月はまあまあ霊力あるよ。陰陽師やってみる?俺が教えてあげるよ。)
「……!」
紗月は思わず立ち止まり、背後を振り返った。清雅はいつもの調子でニヤリと微笑んでいる。けれど声は相変わらず、彼女の頭の奥深くから響いてくる。
(……何度も言うてるやろ、やらへん言うてる!うちに霊力なんてあらへん!それに頭に直接話すのやめてくれる?ほんま気持ち悪いわ、なんか変な汗出てくるし!)
紗月は心の中で思い切り反論する。それでも清雅は涼しい顔で、悠然と声を響かせてきた。
(気持ち悪いなんて、言いすぎじゃない?紗月が「かわいそうな子」って思われないように、ちゃんと気を遣ってあげてるのにさ。それに声を出さなくてもいいんだから、便利だと思わない?)
(あのなぁ、誰もそんな気遣い頼んでへんし、いちいち喋りかけてこなくてええから!黙っててくれるほうが助かるわ!)
紗月の心の抗議もどこ吹く風。清雅の声はまったく動じる気配もない。
(まあまあ、そんなに怒らなくていいじゃない。ほら、そろそろ協会の人が出てくる時間じゃないか?集中しなよ。陰陽師としての初仕事なんだからさ。)
(あんたがうちの集中力を切らしてるんよ、そもそも私は陰陽師ちゃうって言うてるやろ!ただのお使いや言うてるやんか!)
紗月は再び改札の方へ目を向けた。既に聞いていた新幹線の到着時間は過ぎている。だが清雅の声が頭の中に響き続けるせいで、どうにも集中できない。
改札の向こう側から人々が続々と溢れてくる。人混みのざわめきや蝉の声が耳に入っているはずなのに、紗月の意識は清雅の存在にほぼ占領されていた。
(はぁ…ほんま、これがずっと続くんやったら私、ほんまに頭おかしくなりそうやわ……)
そうぼやきつつも、清雅の「教えてあげる」という言葉にほんの少し興味が引かれている自分に気づき、余計に複雑な気持ちになった。
○
京都駅の新幹線改札前。観光客や通勤客が行き交う中、一際目立つ紅い髪の女性が視線を彷徨わせていた。彼女は陰陽師協会の二級陰陽師、
「……やっぱ、いないか。」
村瀬は軽くため息をつき、改札周辺を見渡した。
(まぁ、千紘のことだ。こんなところでおとなしく待ってるわけないわな。どうせ好き勝手やって、後から現れるんだろうけど。)
紅子は腕を組みながら再び辺りを見回す。すると、目に留まったのは、改札付近でどこか所在なさげに立っている少女だった。彼女もこちらに気づいたようで目が合った。
(ん?あれってもしかして……)
村瀬の目が光る。少女をじっと見つめ、数歩近づいた。
「おい、悠希。あれが、橘彩花かもしれないな…」
「えっ、橘彩花ってだれですか?」
「橘家の跡取り雅彦の妹で、橘家の中では一番の有望株だ。間違いない、この感覚……見た目以上に出来そうだな…」
自信満々に言い切る紅子に、大野は感嘆の声を漏らす。
「へえ、さすが紅子さん、そんなことまでわかるんですね。それにしても、あの橘彩花が迎えに来てくれるなんてすごいですね。」
二人が話している間、少女は困ったような顔をして二人に近づいてきた。
「す、すいません……もしかして、陰陽師協会の方ですか?」
村瀬は少女の前に立ち、口元に得意げな笑みを浮かべた。
「初めまして、陰陽師協会二級の村瀬紅子です。で、こっちが大野悠希、君って橘彩花だよね?」
少女は一瞬ポカンとした表情を浮かべたが、すぐに顔を赤くして手を振った。
「え、えっと……ちゃいます!うちは彩花様じゃありまへん。ただのお手伝いですわ!陰陽師やなんてとんでもない……。」
村瀬は驚いて眉を上げる。
「え?嘘……じゃあ君は一体……」
少女は気まずそうに笑いながら答えた。
「うち、彩花様の遠い親戚の
「おかしいな……私の“感”が外れたことはないんだけど……。」
紗月は困ったように笑い、首を振った。
「そんなん、ほんまに力なんかありまへん。ただ……橘家の血ぃ引いとるから、そない感じだからと思いますわ。」
その言葉に、大野は呆れた顔で紅子を見ながらボソッと言った。
「紅子さんの“感”を信じて損しましたよ。」
「ははっ、ごめん、ごめん、まあ仕方ないじゃない。紗月ちゃん。案内よろしくね。」
○
錦市場の通りは観光客と地元の人々で賑わい、美味しそうな香りが立ち込めていた。その中で一際目立つ存在がいた。
金髪を巻き髪にしてゆるく垂らし、濃いアイメイクに露出の多いクロップトップにハイウエストのショートパンツ、ギャルの格好をした賀茂千紘は市場の通りを闊歩していた。
「うわぁ~!このいちご大福、やっば!んー、甘酸っぱくてマジ最高!」
片手に白いお皿を持ち、大福をひと口食べて声を上げる。市場の人混みの中、千紘の声は遠慮なく響き渡った。
「この串焼きもヤバいね~!肉の旨みがギュッと詰まってて、最高すぎっしょ!」
目を輝かせながら、焼きたての串焼きをパクッとかじる。お店の人からもらった袋をその辺のゴミ箱に無造作に放り込み、次に目を向けたのは肉寿司の屋台だった。
「なにこれ、肉寿司!?え、マジ?天才すぎない?ひとつちょーだい!」
カウンターで手早く注文を済ませると、さっそく寿司を頬張る。その様子は、完全に観光気分を楽しむただのギャルで、特級陰陽師ということはまったく感じさせなかった。
千紘にはそもそも、特級陰陽師として、陰陽師協会の二人と一緒に行動するという概念そのものがなかった。
(だって、ちゃんと長官に連絡したし?それで十分じゃない?)
彼女の思考はいつも自己中心的で、合理的というよりむしろ「都合のいい解釈」で成り立っている。以前、土地神を怒らせた際、長官自らが止めに来たことがあった。その際、長官に釘を刺された言葉が千紘の脳裏をかすめる。
——「次からどこかに行くときは必ず連絡しろ。それさえ守れば、どこにも行くなとは言わん。」
この言葉を、千紘は都合よく解釈していた。
(京都にいるって長官に言ったし、もう何してもオッケーじゃん!)
その瞬間、千紘の中で「協会への義務は果たした」と結論づけられた。合流して行動するどころか、まず観光を楽しむことが最優先になったのだ。
「次は何食べよっかな~。あっ、抹茶のソフトクリームとかいいかも!」
陰陽師協会の村瀬紅子が京都駅で千紘を探していたことも知らず、千紘はきらきらと輝く目で市場を見渡し、まだまだ食べ足りないとばかりに、満面の笑顔で歩き出した。
千紘の食べ歩きはまだまだ続いていくのだった。
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