第二章 京都動乱編

第1話 日本陰陽師協会

東京都千代田区・大手町――将門塚を望む近代的なオフィスビルの一角に、日本陰陽師協会の本部は存在する。そのビルは霊的結界の要として知られ、国家の安全保障における重要な役割を果たしていた。


「霊的防衛の盾」とも呼ばれる陰陽師たちは、国家公務員としての地位を持ち、その道を志す若者たちにとって憧れの職業となっている。京都や東京を拠点とする陰陽師育成のための専門学院も存在し、卒業生たちは精鋭として協会や地方の支部に配属される。


その近代的なオフィスの中の会議室、ホワイトボードの前に立つ女性が無駄のない所作でペンを走らせていた。


彼女の名前は 久我凛くが りん


一級陰陽師の証である黒と金を基調とした羽織をまとい、その袴の裾には小さな五芒星模様が刻まれている。胸元には銀と黒のバッジが輝き、「一級」と刻まれているのが目に留まった。


久我は冷静な目つきでホワイトボードに文字を書き込みながら、目の前の二人に語りかけた。


「京都の橘本家たちばなほんけから正式な要請が来たわ。敷地内にある封印石が割れ、封印が解けたらしい。」


その言葉に、目の前に座る二人の陰陽師、二級の 村瀬紅子むらせ べにこと、三級の 大野悠希おおの ゆうきは神妙な表情で聞き入る。


「封印石が割れた原因は不明。ただ、封じられていた存在に関しては諸説あるけれど、一つ明確なのは、それが『平安時代に封印されたもの』ということ。そして、その封印を施したのが……橘家の祖先と“白鴉しらがらす”だと言われている。」


「…白鴉……?」


村瀬紅子が口を開く。彼女は真っ赤な髪を後ろに流し、背中には陰陽道を象徴する太陽と月の模様が描かれている羽織を着用している。


「そう、平安時代後期に活躍した伝説的な陰陽師よ。鬼を退け、人を導いたと言われる存在。千年近くも昔の話。残っている記録では陰陽寮の実務部隊の長、安倍晴明を凌ぐ陰陽師と言われているわ。」


久我の声は冷静そのものだったが、その内容は重く響いた。


「つまり、平安時代の伝説級の封印を、私たちが見に行けるってことよね?面白そうじゃない。」


「そんな簡単な話じゃないわ。」


久我がすかさず言葉を切り返し、厳しい視線を紅子に向けた。


「問題なのは、封印が解けたことで、橘本家の敷地内に異常が発生していること。敷地周囲の結界が不安定になり、妖が集まり始めている。そして――中から出てきたという人物が陰陽術を使っていた…という証言がある。」


「……つまり、その“封印されていた何か”は、鬼の類いではなく……陰陽術を使える存在ってことですか?」


大野悠希が慎重に問いかける。彼はまだ若手だが、誠実な性格と的確な判断力で期待されている陰陽師だ。


「そう考えられるわ。ただし、詳細は不明。橘本家の文献によると、封印されてたのは『夜叉王』と言う鬼とされているけれど、それが正しいかもはっきりしない。」


「それと、もう一つ。」


久我の口調が少し変わり、少しだけ柔らかさを帯びた。


橘本家たちばなほんけの跡取りである 橘雅彦たちばな まさひこだけれど、彼の陰陽師協会への加入が内定したわ。現在、彼は二級陰陽師としての資格を持っている。」


その言葉に、村瀬紅子が少し眉を上げる。


「…加入前で既に二級ですって?」


「ええ。彼は優秀よ。それに、橘家の伝統を背負う存在として、協会内でも特別な期待を寄せられている。だからこそ、今回の件についても、彼が現地で対応する予定よ。」


久我は冷静に説明を続ける。


「……ふぅん。まあ、橘家の御曹司様がどれほどの実力か、楽しみにしておくわ。」


村瀬紅子は挑発的な笑みを浮かべながら、興味を引かれた様子を見せた。


一方、大野悠希は黙って久我の話を聞いているが、その表情にはわずかな緊張が見え隠れしていた。


「大野、村瀬、今回の任務は非常に重要よ。橘家と協力しつつ、現地の状況を調査して報告してちょうだい。」


久我は最後にそう言い放ち、ホワイトボードの文字を見やりながら、静かにペンを止めた。


「任務は以上。何か質問があればどうぞ。」


村瀬が笑みを浮かべながら言う。


「特にないわ。ただ、少し面白そうじゃない?」


「……俺は、少し緊張してますけど。」


大野は小声で呟く。


久我は二人の反応を見つつ、小さくため息をついた。


「……頼んだわよ。橘本家と協会の信頼関係を損なうことだけは避けて。」



久我凛は二人の陰陽師が京都に向かう姿を見送ると、足早に長官室へ向かった。緊張した面持ちで扉をノックする。


「久我凛です。」


「入れ。」


低く威厳のある声が扉の向こうから響いた。凛は深呼吸をして扉を開ける。


室内には、日本陰陽師協会・長官の 安倍輝守あべのてるもり が正面に座っていた。金色と深紫の豪華な羽織に、特級の象徴である金色の五芒星が刺繍された姿は、どこか気品がありながらも、今日はやや疲れた表情を浮かべている。


久我は深々と一礼し、報告を始めた。


「長官、村瀬と大野がたった今、京都の橘本家たちばなほんけに向かいました。昼過ぎには現地に到着できるかと思います。」


輝守は軽く頷き、深く座った椅子から体を少し起こす。


「そうか、ご苦労だったな。」


「ですが……」凛の声には迷いが混じっていた。


「本当にこれでよかったのでしょうか?橘家からは一級陰陽師の派遣要請を受けていました。ですが、派遣したのは二級の村瀬と三級の大野……。橘家との信頼関係を損なう恐れが――」


凛が慎重に言葉を紡ぐと、輝守は静かに息を吐き、天井を見上げる。


「まぁ…その点だけは…大丈夫だ……」


長官の口調がどこか重くなり、凛は思わず背筋を伸ばした。


「休暇中の賀茂千紘かもちひろが、京都で待っている。」


「……え?」


凛の顔が凍り付いた。


「特級陰陽師の賀茂様が……京都に?!」


「ああ。どうやら、星の動きから何かが起きると察知したらしい。何も知らせずに勝手に動いた。私が知った時には、すでに京都で準備万端だ。」


「そ、それは――止められなかったんですか?」


「止めるも何も、報告があった時には既に京都にいた。賀茂を止めるには、星を動かすくらいの力がないとな…」


その軽い冗談を凛は全く笑えず、頭を抱えた。


「賀茂様が京都で何をするかわかりませんよ!橘家が混乱するどころか、下手をすれば京都そのものが――」


「……その可能性は否定出来ないな…」


賀茂千紘かもちひろ。十代と若いながら、日本にわずか9人しか存在しない特級陰陽師の一人であり、強力な式神を数体操り、未来予知とも言える星読みの能力、その実力は計り知れない。しかし、彼女の性格は問題だらけだった。


好奇心旺盛で、面白いことには目がない。だが、協調性がゼロ、いつも自分のやりたいように動き、周囲を混乱させる。任務につかせるたびに問題を起こす。どうしようもない強敵が現れた時以外、使いどころがない諸刃の剣だった。


「戦闘を楽しむあの性格……過去に何度頭を悩まされたか…」


輝守はふと遠い目をしながら語る。


「以前な、あいつが一級陰陽師の任務に勝手について行って、土地神をわざと怒らせたとき……俺が止めに行ったが、あの時の混乱ったらなかったぞ。村も結界もぐちゃぐちゃになった。」


久我は額に手を当てながら、当時の混乱を思い返して頭を抱えた。


「……あれがまた起きるかもしれないんですね……。」


長官は軽く笑いながら肩をすくめた。


「ああ、まぁ最悪、また俺が行くことになるだろうな。」


「賀茂様が行動を起こせば、村瀬と大野の任務がさらに混乱するのは間違いありません。どうするおつもりですか?」


凛が食い下がるように問うと、輝守はまたため息をついた。


「どうするもこうするも……。私があいつを京都に向かわせたわけじゃないからな…さすがに休暇中の職員までは把握出来ん。もう運を天に任せるしかない。」


「運に任せるって……!」


凛の声が震える中、輝守はどこか投げやりな笑みを浮かべた。


「星を読んで動いた以上、あいつが何かを察知しているのは間違いない。問題は、それをどう収拾つけるかだ……。」


久我は困惑した表情を浮かべた。


「それが問題なんです!いつもあの方はやり過ぎる……。」


「心配するな、凛。最悪の場合、私も京都に行くさ。」


凛はその言葉に呆れたようにため息をついた。


「はぁぁ……その言葉が一番心配なんですよ。何かあったら、長官が出向くなんて事態は避けたいですし……。」


そう言いながら、ふと顔を伏せて小さく呟いた。


「それに……村瀬には連絡を入れないと。彼女、怒るでしょうね……結局、私が悪者になるんです。全然関係ないのに……。」


凛がため息を吐きながら、そう呟いた瞬間、部屋には苦い笑いがこだました。



新幹線の車内、窓際の席で村瀬紅子むらせべにこは楽しげに缶ビールを片手にシュウマイをつまんでいた。備え付けの小さなテーブルには、すでに空き缶がいくつも転がっている。


「プハッ!かーっ、仕事中のビールってのはなんでこんなに美味いんだろうねぇ!」


紅子は満足げに笑いながら、大野悠希おおのゆうきに缶を差し出す。


「悠希も飲む?」


「いりませんよ!」


悠希は呆れた表情で紅子を睨みながら、真剣に叱る口調で続けた。


「それに紅子さん、飲み過ぎです!あと一時間ぐらいで京都に着いちゃいますよ。どうするんですか?そんなに飲んじゃって……俺、知りませんからね!」


「かーっ、なぁに固いこと言ってんだよ~?」


紅子はケラケラと笑いながら、悠希の肩を軽く叩く。


「そんなんじゃ女にモテないぞ!」


「別にいいですよ!それに紅子さんみたいな女性にモテたくありませんから!」


悠希が真顔で言い返すと、紅子は一瞬目を丸くしたが、すぐに大笑いを始めた。


「ははは!いいねぇ、悠希はほんと素直で面白いわ~。でもさ、そんなこと言っても、京都駅に橘家の人が迎えに来るんでしょ?マズイよなぁ、酔っ払ってたら?」


「だから言ってるじゃないですか!」


悠希はテーブルの上の空き缶を片付けようと手を伸ばすが、紅子に止められる。


「大丈夫、大丈夫、こんなんじゃ酔わないから!」


紅子は胸を張って自信満々に言う。


そんなとき、紅子のスマホから突然電子音が鳴り響く。

紅子がスマホを手に取り、何気なくメールを開いた途端、その表情がみるみる険しくなり、手が震え始めた。


「……はぁっ?なんだこれ!」


声を荒げた紅子が、手元の缶ビールを乱暴にテーブルに置く音が響く。


悠希は驚いて紅子を見た。


「え、どうしたんですか?」


紅子はスマホを片手で握り締めながら、もう片方の手でテーブルを軽く叩き、怒りを抑えきれない様子でメールの内容を読み上げた。


「『賀茂千紘が京都にいるから、一緒に任務にあたれ』だってよ!凛のやつ、絶対にわざと出発前に言わなかったな!」


「賀茂千紘……?」


悠希は首を傾げながら聞き返す。


「その人……誰ですか?」


紅子は深く息を吸い、スマホを乱暴にテーブルに置いた。


「特級陰陽師だよ。だけどな、あいつはただの戦闘狂だ。」


「戦闘狂……?」


悠希の表情には困惑と不安が入り混じる。


紅子は眉間に手を当てて、頭を振りながら続けた。


「協調性なんて一切ない。自分のやりたいことを優先して、周りを混乱させる天才だよ。悠希は知らないだろうけど、前に土地神を怒らせて、長官自ら出て行ったことがあるくらい問題児なんだよ!」


「そんな人と……一緒に任務ですか?大丈夫なんですか、それ……?」


「大丈夫なわけないだろ!」


紅子は窓の外に目を向けながら、少し落ち着きを取り戻したように呟く。


「凛のやつ……まぁ、どうせ気まずくて言い出せなかったんだろうけどさ……。だからって、こっちは巻き込まれる側なんだよ!」


悠希は呆然としながらも、なんとか言葉を絞り出した。


「で、でも……協会が特級にしてるってことは、きっと実力があるんですよね?僕もその目で確かめたいです。」


その言葉に、紅子は驚いたように悠希を一瞥したが、すぐに苦笑いを浮かべた。


「……悠希、お前、意外と肝が座ってるな。まぁ、せいぜい命だけは落とさないようにしろよ。」


窓の外には浜名湖の穏やかな水面が広がっている。紅子はその景色を見つめながら、ふと真剣な顔つきになり、ぽつりと呟いた。


「何事もなく終わればいいけど……。」


悠希はその声に小さく頷き、視線を落とした。


新幹線は浜名湖を望む鉄橋を越え、徐々に京都の街並みへと近づいていった。

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