最期の虹

餅雅

 虹の麓には宝物が眠っている

 空に墨汁を垂らした様な夜だった。月は無い。星も見えないので、多分夜空を雲が覆っているのだろう。最後の一本となったタバコに火を点けようか迷いながら、春日 俊介は外を見ていた。家の中の豆電球が夜風に揺れ、その揺れた灯が縁側を仄かに照らした。星を見るわけでもなく、森を見るわけでもなく、ただ墨色の暗闇に、自分の次のテーマを見つけ出そうとぼうっとしている。部屋の隅に転がった筆が音を立てて机から落ちると、俊介は闇を切り裂くような不快な声を聞いた。


 えーんえーん……


 俊介は瞬時に瞳を宙に泳がせた。そして、壁に掛けられている振り子時計で時間を見る。十時を指しているのを見ると、再び耳を済ませた。犬の鳴き声と聞き間違えたのかも知れない。こんな真夜中に、子供の泣き声だなんて……それこそ、怪談話にうってつけなこの墨色の世界に、俊介は少し恐怖を覚えていた。


 えーんえーん……


 声がさっきよりも大きくなった。多分、こっちに近付いて来ているのだろう。俊介は重い腰を上げて懐中電灯を探した。乱雑に散らばった紙や本を選分けて懐中電灯を取り、墨色の世界へ光を向けた。暗闇に丸くライトが照らされて、光の当たっている丸い部分の木や草が暗闇の中に浮かんだ。

「誰か居るのか?」

 裸足に草履を引っ掛けて庭に立つと、右へ左へと光を回した。暗闇から返事が帰って来ない事に尚更恐怖が押し寄せて、最後の一本だったタバコを加え、とうとう火を点けた。

「おじちゃん」

 声のした方へ直ぐに懐中電灯と俊介の目が向かった。丸い灯の中に、ぼんやりと女の子の姿が浮かんだ。女の子は涙を拭うと、直ぐに俊介に走り寄って来た。



 久しぶりの来客のために、俊介は部屋の中に散らばった紙や本を部屋の隅へ追いやった。折り畳まれて埃を被っていた卓袱台を部屋の真ん中に置くと、女の子を座布団に座らせて水を出した。

「それで? 何でこんな時間に君はこんな所に居るんだい?」

 俊介は女の子を見た。女の子はさっきまで泣いていたせいか、目が腫れ上がって血走っている。出されたコップの中の水を飲むと、俊介を見た。

「虹を追いかけてたの」

「は?」

 女の子の意外な答えに、俊介は少し頭を悩ませていた。

「おじちゃん知らない? 虹の麓には、宝物が眠ってるんだよ。だから、虹を追いかけてたんだけど、どんどん遠くへ行っちゃうの。そのうち消えちゃって、気付いたらお家が解からなくなっちゃったの」

 俊介は目を丸くしてポカーンとしていた。ここから村へは結構放れている。静かに一人で絵を描くためにアトリエを設けて、それ以来狸や猪が来る事はあっても、人間が来る事は先ず無かった。しかも、こんなジンクスを信じているような子供が……

「えーと、じゃぁ、名前は?」

「ユン! 松原 ゆんって言うの! 五歳だよ」

「変わった名前だね」

 俊介はアトリエに篭ってめったに町には戻っていない。近場の村で入用なものは買っているので、最近の流行や子供の名前の変化など、知るよしも無かった。

「空に浮かぶ雲って書くの!」

「ああ、雲南のユンか」

 親は差し詰め中国語の好きな人なのか、はたまた中国に親戚でも居たんだろうその名前を聞いて、俊介は少し笑った。

「おじちゃんの名前は?」

「おじちゃんじゃないの。俺まだ三十五歳だから、おじちゃんじゃないの。春日 俊介」

 本人的にはまだ自分は若い方だと思ってるらしい。中身は二十代のつもりで居るが、髭の剃り残しと細かいゴミが絡まった無造作ヘアーを見る限りでは、ユンの目にはおじちゃんにしか見えなかったのだろう。俊介は、せめてお兄さんと呼んで欲しかったようだ。

「おじちゃん、えー描くの? じょーずねぇ」

 ユンは散らかった部屋の隅に追いやられている紙や画用紙を見た。街や、建物の絵。川や山の絵。人や空の絵……ユンは重ねられた画板を目にして首を傾げた。

「……最近は描いてないんだ」

 俊介が呟く様にそう言うと、ユンは俊介を見た。ぼりぼりと頭をかきながら、床に落ちていた鉛筆を一つ拾い上げた。

「二週間……いや、もっとかな。描けなくなったんだ」

 俊介はそう言って鉛筆を卓袱台の上に置いた。立ち上がって隣の台所へ行くと、冷蔵庫を覗く。これと言って、子供が喜んで食べそうなものは無い。たんぽぽの天ぷらだったり、ご飯の残りだったり……俊介は冷蔵庫を開けたままユンを見た。

「何か食べるか? ご飯くらいなら……」

 俊介は言葉を詰らせた。さっきまで自分の絵を眺めていたユンが、畳の上で横になっている。俊介が時計を見ると、十一時に近かった。子供はとっくに寝ている時間だし、何より歩き疲れたのだろう。俊介はユンの体に薄い肌布団をかけた。真夏の夜と言えども、少しばかり冷える。俊介は縁側の窓を閉め始めた。



 真っ白な砂漠に赤い線路が引かれ、水色の風が尾を引いた。木の葉と同じ色のクレヨンが紙上を転がると、不機嫌そうな子供の顔が俊介を睨んでいた。

「おじちゃんも絵、描こうよ。じょーずなのに」

 落書きに飽きたのか、ユンはそう言った。俊介はそんなユンを横目に、積み上げられた本を読んでいた。村へ行くためのバスは、一日に三回しかこの辺りには来ない。バス停までは歩いて二十分程だ。俊介は時計を気にしながら本を読んでいた。ミレー、ゴッホ、エル、ダビンチ……誰のどの絵を見ても、何だかイメージが湧いてこない。自分の絵のイメージが。いわゆるスランプと言ったところだろう。

「おじちゃん寂しいの?」

 ユンの言葉を聞いて、俊介はユンを見た。自分が描いた絵の上に顎を乗せてこっちを睨んでいる。

「おじちゃんの絵、泣いてる。ちゃんと見てくれないって言ってる」

 ユンの瞳には、俊介が鏡の様に映っていた。散らかった部屋、乱雑に積み上げられた紙や絵筆や本。ユンは赤と青のクレヨンを取って両手で自分が描いた絵を塗り潰した。赤い線と青い線が交差して円を描き、遠目に見ると紫色の物体に見える。ユンはクレヨンを放り投げて畳みの上に横になった。俊介は相変わらず気にせずに本を読んでいたが、ユンはつまらないのか、そのうち一人で外へ出て行った。

 そろそろバス停に向かわないと村に行けなくなると思い、俊介はユンを探し始めた。村の駐在所に連れて行けば、ユンを保護してくれるなり、親元に帰してくれるだろうと考えていたのだが、外に出て行ったきり姿を見ていない。俊介は粗方家の周りを探して、自力で家に帰ったのだろうと考えて探すのを止めた。小屋に戻って縁側に横になると、ユンの言葉が脳裏を過ぎった。「ちゃんと見てくれてないって」――意味が解からん。目を閉じて暗闇の中を見通そうとすると、顔に何かが当たった感触があって目を開けた。

「おじちゃん、眠いの?」

 ユンの顔が俊介の直ぐ目の前にあった。俊介が驚いて身体を起すと、自分の顔の上にばら撒かれた花々が縁側に落ちた。

「お前、何で居るんだよ」

 俊介は振り子時計の時間を見た。丁度今バスが出て行った所であろう時間を指していた。俊介は頭を抱えた。次のバスに乗って村に行けなかったら、帰りのバスが無い。

「? 居ちゃ駄目?」

 ユンが首を傾げて聞くと、俊介は頭をかきながらユンを見た。この家に電話線は来て居ないから、どの道村の駐在所まで行かないといけないし……

「親が心配してるんじゃないか?」

 不機嫌そうな顔で言ったのだが、ユンは目を丸くして俊介の顔を見つめていた。

「おじちゃんのお母さんもきっと心配してるよ」

「あ~はいはい。次のバスの時間にまた居なくなったら、晩飯抜きにしてやるから覚えとけよ」

 俊介はそう言って頭をかいた。髪に絡まった花が縁側に落ち、俊介は溜息を吐いた。茶色い縁側に黄色い花びらが散る。

「おじちゃんがお花屋さんね」

「やなこった。描く絵の題材を考えていた方がよっぽど有意義だ」

 俊介はそう言って花を一つ握り潰した。庭に向かって花びらを投げると、萎れた花が地面に音も無く下りた。

「そういうのって、何も無い所から思いつくものじゃ無いと思うよ?」

 俊介はユンの言葉を聞いて、尚更不機嫌そうな顔をすると、家の中に上がって寝転がった。ユンは空を見上げた。空は雲一つ無い快晴。白い鳥が円を描いて空の彼方へ飛んでいく。するとユンは俊介を見た。

「おじちゃん、私の絵、描いてよ!」

「ああ?!」

 俊介は驚きと一緒に呆れたような返事をした。寝転がったまま、視線をユンに向ける。不機嫌そうな顔を見て、ユンは笑って見せた。

「描いてくれたら、ユンお家に帰るよ。で、絵が出来たら、取りに来るから頂戴」

 俊介は頭をかきながら少し考えていた。何だかなあ、また次のバスの時間にはいなくなりそうな雰囲気ではある。親御さんが心配しているんじゃないだろうかと考えながらも、当の本人はそんな事は気にしていないようだ。この年頃の子供だったら、親から離れて寂しいとか思うのが普通なのでは無いだろうかと俊介は考えていた。

「ねえ!」

 ユンが目を輝かせて言うと、俊介は身体を起した。まあ、別に今の所、描きたい絵も題材も思い浮かばないから……

「絵が出来たら帰れよ!」

「は~い!」

 わ~いとユンが叫んで両手を空へ広げて喜んでいる姿が俊介の目に映った。俊介は溜息を吐きながらスケッチブックを取ると、鉛筆を持ってデッサンを始めた。俊介が動くなと言っても、ユンはワザとらしくふざけて見せた。家に帰りたく無いのだろうかと俊介は考えていたが、夕方に雨が降り始めると、ユンは縁側から空を見上げていた。

 結局村へは行けなかったと俊介は考えながら、縁側に座ってじっと空を見上げているユンを描いていた。

「ユンはさ、近くの村に住んでるのか?」

「ううん。遠い所に住んでた」

 雨が小降りになるのを見て、ユンは目を見開いた。まだ日は沈んでいない。

「おじちゃん!」

「お兄さん!」

 俊介は少し怒りながら言うと、ユンは笑って自分が座っている縁側の隣を叩いた。それを見て俊介はユンの隣に腰掛けた。

「何だ?」

「私ね、虹を見たの。」

「追いかけてたんだろ?」

「そう、虹を見てて、追いかけて……ほら!」

 ユンは空に向かって指をさした。雨が上がり、空に大きな虹が架かっていた。俊介もその綺麗な虹に見とれていた。夕暮れが近付く青い空に、七色の色鮮やかな虹が架かっている。天使が絵の具を零したのだといつか本で読んだ事がある。自分が今まで見た事のある虹は、ぼんやりとしていて、直ぐに消えてしまうようなものだったが、今日ほどくっきりと空に映し出されている虹を見るのは、俊介にとっては初めてだった。

「綺麗」

 ユンの声が聞こえた。俊介は虹に目を奪われたままだった。

「ああ」

 正直に、心から同じ言葉が漏れていた。

「夢を叶えるのって、きっと虹を追いかけることと似てるのね」

 ユンが呟く様に言う声を、俊介はじっと聞いていた。ぼんやりと虹が空に融けて行くと、俊介は溜息を吐いた。

「偶には良いもんだな。空を眺めるのも」

 俊介がそう言って隣を見るが、そこにユンの姿は無かった。立ち上がり、庭や家の中を見回すが、まるで空に融けた虹の様に、ユンの姿も消えていた。

「ユン?」

 俊介がユンの名を呼ぶが、ユンが俊介の前に現れる事は二度と無かった。



 雪が今にも降り出しそうな寒い日に、俊介は県立会館に来ていた。今年も無理かも知れないと思いつつも、毎年の事ながら、冬の展覧会に自分の絵を出している。相変わらず一般アマチュアしか出展していない会館だけあって、観に来る人は少ない。学生部門の部屋まで行けば親子ずれに出会うだろうが、一般部門には殆ど誰も居ない。俊介はそう考えながら『一般部門』と書かれた表札の部屋に入った。壁には所狭しと色々な絵が並んでいる。水彩画、油絵、パステル画、A4サイズから大人の身長を軽く越えるような大きな絵まで、それこそ様々だ。俊介は自分の絵を探していた。

 春日、春日……あれぇ?

 俊介は瞳を宙に泳がせた。まさか初戦落ちだったのだろうか? と考えながら頭をかく。そして、一枚の絵の前に女の人が立っているのを見ると、俊介はその女の人の後ろから絵を覗き込んだ。

 あ!

 あった! と言いかけて咽から声が出なかった。女の人は俊介に気付くと、半歩横にずれた。

「すみません」

 俊介は少し笑ってそう言うと、女の人の隣に並んで絵を見た。碧空の彼方に霞色の雲。そして、あの日見た綺麗な虹。虹を見上げる少女の手には、黄色い花が握られている。題名は『雲と虹』作者『春日 俊介』『佳作』俊介は『佳作』と言う文字を見て喜んでいた。やっと自分の絵が認められた。佳作ではあるけれども、自分にとっては初めての賞だった。

「この絵、もしかしてあなたがお描きになったのですか?」

 隣にいた女の人の存在を、俊介はすっかりと忘れていた。俊介は絵から女の人に視線を移すと、何だか焦燥にかられた顔をしている。

「ええ、そうですけど」

 女の人は黒のワンピースを着ていて、髪をお団子にしていた。少し視線を床に落とすと、再び絵を見上げてこう言った。

「この絵の女の子は、ユンですね」

 女の人の言葉を聞いて、俊介は少し驚いていた。あの日以来、ユンとは会っていない。はっきり言って、自分がスランプだった時に見た幻覚だったのではと何度も思った。それが今、見ず知らずの目の前に居る女性から聞いた言葉で、当時の事を思い出していた。

「ユンを、知っているのですか?」

 驚きと共に少し嬉しかった。夢でも幻覚でもなかった。この人がユンの事を知っているのであれば、また会えるかもしれない。そう思った。

「知っているも何も、私はユンの母親です」

 疲れきったような声だった。女の人はそう言うと、絵の前に置かれたソファーに腰掛けた。俊介も、女の人の隣に腰掛ける。

「半年前の夏、あの子が最後に着ていた服も、あの子が好きだった花も、虹も、全部この絵一枚に描き込まれている。私はホッとしました。この絵を見るまで、私は空も、虹も憎くて憎くて仕方が無かった。」

 女の人は静かに話しを続けた。



 夏休みを利用して父親の郷へ帰省していたユンの家族は、夏の空に架かった虹を見上げた。

「ユン、知ってるか? 虹の麓には、宝物が眠っているんだぞ」

「え~本当?」

 ユンの甲高い声が、空の彼方に響いたのを覚えている。父親が娘に教えたそのジンクスのせいで、娘が二度と戻って来なくなるなどとは、この時誰も想像していなかっただろう。

 翌日、ユンは再び空に虹を見つけると、足早に母の居る台所に顔を覗かせた。

「お母さん、私、虹の宝探してくる!」

「お夕飯までには帰って来なさいよ。」

 母は台所で晩ご飯の仕度をしていた。ユンは笑いながら虹を追いかけて行った。ユンの最後の言葉が脳裏を過ぎる度に、何故あの時止めなかったのだと何度も自分を責めた。



「ユンが発見されたのは、翌日の夕方だった。多分、虹を追いかけて空ばかり見ていたから、草むらの先が崖になっている事に気付かなかったのね」

 女の人の話しを聞いて、俊介は肩の力を抜いた。ユンが死んだ事の悲しみと憤りで、俯くしかなかった。

「それから夫と別れて、ずっと引き篭もっていたんです。それがたまたま今日……ユンに呼ばれたような気がして、いつの間にかココに」

 女の人がそう言うと、俊介は女の人の顔を見て、自分が描いた絵を見上げる。絵から風が吹き抜けてくるような錯覚を覚えた。

「きっと、虹の麓にあった宝って、あなたの事だったのね。」

「え?」

 俊介が女の人を見ると、女の人は少し笑って俊介を見ていた。

「そしてこの虹が、ユンが最後に見た虹だったのね」

 女の人は再び絵を見上げた。女の人の目から涙が溢れて頬を伝うのを見ると、俊介も絵を見上げる。何となく、あの時のユンの言葉の意味が解かった気がする。人を感動させない絵は、絵のように見えて、実は絵では無いのだと。

「この絵、貰っていただけますか?」

 俊介が口を開くと、女の人は涙を拭って俊介を見た。

「いけませんよ、こんな賞を取るような良い絵を……。」

「ユンとの、約束でしたから」

 俊介の言葉が終わると、何処からとも無く子供の笑い声が聞こえて来た。俊介と女の人は再び絵を見上げ、子供の声につられて少し笑っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

最期の虹 餅雅 @motimiyabi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

参加中のコンテスト・自主企画