4月28日――④

 目が覚めると、僕はベッドの上で寝ていることに気づいた。

 仰向けの状態で、あたりを見渡す。


 そこは無機質な白い壁に囲まれた、何の面白みもない殺風景な部屋だった。

 右からは少し暗さの感じる夕暮れの日差しが透明なガラス窓から差し込み、左には視線を遮るためにつけられた深緑色のカーテンが。

 何かこの場所……、すごく既視感があるぞ。

 僕は以前、ここに来たことがある気がする。いつだったっけな……?


 そうだ、思い出した。あれは確か、僕が中一で夏休み前ぐらいの時期のこと。

 夜に二日ぐらいならいけるだろうと、消費期限切れのシュークリームを食べた翌日。日中、学校で授業を受けていた時突然、猛烈な腹痛に襲われた。

 先生が僕の親に連絡し、早退するまで横になっていたこのベッド。


 保健室だ。クリーム系の食中毒で痛い目を見た、あの日の苦い記憶がよみがえる。

 ただ、それ以上に思うのは……。僕は天井を見上げながら手のひらでシーツに触れた。

 すごい感触だ。マットレスから伝わる、体全体を包み込むような極上の柔らかさ。 

 僕の家にある家具量販店で買った安いベッドとは明らかにものが違う。


 よく学校の保健室のベッドは寝心地がいいと言われているが、ここまでとはな。

 時間帯もあり、このまま寝ていると本当に熟睡してしまいそうだ。


 僕は布団をはぎ、無理やりにでも体を起こした。


「あら? 直也君、もう起きたのね」


 カーテンの陰からひょっこりと現れたのは、髪を茶色に染めた若い女の人だった。

 白衣を身にまとい、少し驚いた様子で僕を見てくるこの女性は僕が通う学校の保険医だ。


 え~っと確か名前は……、ダメだ。保健室何てさっきの食中毒と、今日でしか来たことがないから何て言うかわかんねえや。


「男の子が貧血で倒れるなんて珍しいから、先生心配したわ。このまま起きなかったら、救急車を呼ぼうと思っていたところよ」

「貧血で倒れた……?」


 先生は僕のことを言ってるのだろうか? 偏食せず(菓子パン三昧の昼は除く)、毎日三食しっかり食べるこの僕が貧血……?

 それはあまりにもおかしいんじゃないか。


 と言うか今思ったんだが、何で僕は保健室にいるんだ。

 頭の中でこれまでの出来事を振り返る。確か学校が終わってから僕はまっすぐ帰らず、どっかに向かった気がするんだが……。


 あれ、どこだったっけ? 僕は何かとても大事なことを忘れているような……。

 ただ、記憶を呼び起こそうにも、まるで頭にモヤがかかった感じで思い出せそうで思い出せない。


「そうよ。あの子がそう言って、あなたをここまで運んできてくれたのよ」


 あの子? その言葉に何故か、僕は引っ掛かりを覚える。


「にしてもすごいわね、あの子。物置小屋からここまで、一人であなたをおぶってやってきたのよ。体の大きさは他の女の子とそう変わらないのに、どこにそんな力があるのかしらね?」


 物置小屋!? それを聞いて、僕は全てを思い出した。


「先生! その、僕のことを運んできてくれた子って今どこに?」

「保健室の外にいるわよ。呼んできてあげましょうか?」

「あ、お願いします」

「わかったわ。先生、今から職員室に資料取りに行ってくるから、あなた達しかいないけど騒がないようにね」


 そう言うと先生は僕に背中を向け、足早に部屋を出て行った。


 先生の言うあの子とは間違いない、メリアだ。

 僕は彼女にとても重大なことを伝えなければならない。

 最後ライダースーツの奴にぶん殴られ、気絶する寸前に気づいたあの出来事を!


「夜だけど、おはよう。ぐっすり眠れた?」


 先生が去ってからすぐ、一人の女の子がカーテンの陰から姿を表した。

 他でもない、ウェーブのかかる赤い髪の少女――メリアだ。


「メリア!」

「一応、直也。あなたのことは貧血ってていで保険医と話をつけたわ。ほら、一介の中学生が校内で殴られて気絶したってなると、騒ぎになるでしょ? そうなると悪魔を探すのに支障をきたす、だから……」

「メリア、聞いてくれ! 物置小屋にいた奴らの正体がわかったんだ!」


 そう、ヘルメットを外そうとするも失敗に終わり、胸部に触れた時に手に伝わったあの感触。


「女だ。奴らの一人のうちは!」


 どうだ、僕もただ殴られてベッドに運ばれたわけじゃないぞ。


 ハハッ! まさか、僕が情報を掴んだと思ってもみなかっただろうな。

 メリアの奴、目を丸くして驚いてやがる。


「どうしてわかるの?」

「どうして、わかるかって? それはだな! 奴には、男にはなくて女にはあるものがあったんだ」

「あるものって?」


 メリアが不思議そうな様子で問いかけてきる。


「乳だ。あいつには胸の膨らみがあったんだ。本当はヘルメットを取って顔を見たかったんだけど、届かなったから仕方なく……」


 そう言い切ろうとした時、ふと僕は何か視線を感じメリアの方を見る。

 すると彼女は、まるで道端に落ちるゲロを見るかのような、軽蔑の眼差しを僕に向けていたのだ。


 あっ……、ヤバイ。言ってから僕は後悔した。

 今のは、女の子相手に話していいセリフじゃなかった。


「直也、あんた……」

「いや、違うんだ!」


 まずいぞ。このままだと僕は、突然女性の胸を触る変態に思われてしまう。

 何とかして誤解を解かなければ!


「あれは不可抗力だったんだ。倒れそうになったから必死で手を伸ばして……」

「ねえ、直也聞いて?」


 すると、メリアは僕の話を遮ってきた。その表情はさっきのさげすむような目とは違って、どこか憐れんでるかのように見える。


「直也、あなたは男だし、そういう欲があるということはわかるわ。でもね、直也。合意もなしに相手に触るのは犯罪よ。あなたはモテなくて相手がいないのかもしれないけど、日本にはそういう人たちのためのお店だってあるんだから。我慢できない時はそこを使いなさい」

「待て待て、現役の中学生に風〇店を勧めるな!」


 クソッ! メリアの奴、とんでもないこと言いやがって。


「だいたい僕は、初めては好きな子とするって決めてるんだ。絶対に高校……、いや大学を出る前に僕は彼女を作って……」

「九分九厘、無理ね」

「そんな……。難しい言葉で否定しないでよ。余計に傷つくんじゃん」


 僕の野望を、いとも簡単にメリアはしりぞけた。


「まあ、あなたがモテなかったり、変態かどうかは今はどうでもいいわ」

「いや、よくない! モテないのは認めるが、変態に思われるのだけは絶対にごめんだ!」

「モテないのは認めるのね……」


 メリアは何故か呆れたと言わんばかりの顔を浮かべていた。


「わかってるわよ。たまたま運が悪かっただけでしょ? 手がかりを掴もうとしたら、女性の胸を掴んでしまったというわけで」

「そうそう! 上手いこと言うね」

「フフ、ありがとう。意外と洒落が通じるのね」


 そう言うとメリアは小さく笑った。


「でもね、直也。あの時、手がかりを掴もうとしたのは何もあなただけじゃないわ」

「え、そうなの?」


 僕がすぐ聞き返すと、メリアは自身の履いているスカートのポケットに手を伸ばし始める。


「それは!?」


 彼女が中から取り出したのは、日本人の九割が所有する文明の利器――スマートフォンだった。


「天使は触れた物体を過去に戻す。わたしのスマートフォンを小屋での一悶着の前、あなたと物置を漁っている時まで戻したわ。録音機能を開始させた状態でね」


 録音機能……? それって、所謂――


「ボイスレコーダーのこと?」

「ええ、そうよ。あなたが保健室で伸びてる間、面白い音声が録れたわ。直也、聞いてみたい?」

「もちろん!」


 僕が強く返事すると、メリアはスマートフォンを僕の膝上、シーツの上にそっと置いた。


 ザザッ


 携帯から砂嵐のようなノイズが鳴り響く。


「何これ? 聞こえないじゃん」

「少し待って。すぐに流れるから」


 メリアにそう促された僕は耳を傾け、静かにその時を待った。


『それで、次のめぼしい獲物は見つかったの?』


 これは!? そう待たずして、スピーカーから人の声が聞こえてきた。

 そしてこのトーンの高さ、恐らく女性だ。野郎ならもっと低いはずだろうし……。


 でも、どうしてだろうか。僕は何故かこの声に聞き覚えを感じてしまうのだ。

 声の主は僕の知ってる人? 録音はまだ続いてるようだった。


『ごめんなさい。なかなか人が見つけられなくて……』


 今度は二人目だ。とても綺麗な声をしている。この人も間違いなく女性――。

 しかし、やっぱりだ。またしても、どこか聞きなじみのある声……。


 バチンッ!


 その時、何かを勢いよく叩いたような強い音が携帯から鳴り響いてきた。

 机や壁を打った時とは違う、この乾いた音の感じ。


 これは多分物ではない、叩かれたのは――人だ。


『困るわ~。あの時、約束したじゃない。あなたを襲わないかわりに、他の人間をわたしに貢ぐ。わたし、約束を破る人間は嫌いなの。あなたもそうでしょ? 白石さん』


「何っ!?」


 この名前は……! 僕の聞き間違いでなければ今、白石と言ったぞ!

 道理で聞きなじみがあるわけだ。白石、こいつのことは覚えている。

 柚葉のいるオカルト研究部の部長だ。オカルト研究部、やっぱり柚葉の失踪に一枚噛んでやがったか!


 となると、白石が柚葉をさらった悪魔の正体……。

 いや待て、違う。――あなたを襲わないかわりに、他の人間をわたしに貢ぐ。

 白石はこのセリフを言われている側。

 白石は悪魔ではない。悪魔なのは、白石と一緒にいるもう一人の方か!


『はい、すみません……』


 白石が消え入るような声で返事をした。


『おととい、見つけたあの子。え~と、ほら! あなたの後輩、名前なんて言ったっけ?』

『柚葉ちゃんのことですか?』


「柚葉だって!?」


 僕は布団をめくり、思わずベットから飛び起きた。


「落ち着いて、直也! まだ、録音は続いてるわ」


 興奮する僕に対し、メリアはなだめるように言い放つ。


『そう、あの子。あの子はもう限界ね。中学生は精神が不安定だから、心を喰いつくすのに三日とたたないわ。まあその分、食べがいがあるんだけど……。フフ、いいものよ。未来ある若者が、助けの来ないことを悟り――絶望し、誰にも看取られることなく一人孤独にその生涯を終えるのは』


 グスッ……


 すすり泣くような声が携帯から聞こえてくる。


『泣かないで、白石さん。あなたとはわたし、協力関係でいたいの。だから、役目を果たして。柚葉ちゃん、だっけ? その子が死ぬまでに、次の子をわたしに捧げて頂戴。さもないと、どうなるか……。賢いあなたならわかるわよね?』

『ヒック、ごめんなさい……』


 嗚咽交じりに白石は答えていた。


 この一連のやり取り……。間違いない、白石は悪魔に脅されている。

 自分の安命を保証してもらう代わりに悪魔の手先となり、自身の身代わりに喰われる人間を見つける。

 その対象が柚葉……。白石にも人生がある。

 彼女だって生き延びるためにしかたなく、悪魔に協力してる側面はあるだろう。


 僕は、そんな彼女に少しばかりの同情を覚える……わけねえだろう!

 冗談じゃない! 世の中には星の数ほど人がいるのに、なんでよりにもよって柚葉なんだ!

 柚葉が何か悪いことをしたのか? 自分の後輩を悪魔に売りやがって!

 死ぬなら一人で勝手に死ねよ!!


 …………。あまりの自分のクズさと身勝手さに嫌気を覚える。

 結局、僕も白石と変わらない。自分さえよければ、周りがどうなろうと構わないんだ。


「クソッ!」


 やり場のない怒りが沸き起こる。こぶしを強く握りしめ、僕はベッドを叩いた。


『あの、城ケ崎先生……』


 城ケ崎だと? 白石が発したこの名前に僕は聞き覚えを感じる。

 確か、こいつは……。そうだ! オカルト研究部のあの背の高い女顧問だ。


 なるほど、あいつが悪魔の正体だったんだな。

 教師の立場を利用して、自分が担当する部活内で獲物を物色する。

 城ケ崎の野郎、とんでもないゲス野郎だ!


『あら、何かしら?』

『今日、先生の家行っていいですか?』

『それは、どうして?』

『柚葉ちゃんに会いに行きたいんです』


 何っ!? 柚葉は今、城ケ崎の家にいるのか!


『別にいいけど、何で? 最期に別れの挨拶でもしに行くつもりなの?』

『それは……』

『言っとくけど、連れ出そうとは思わないことね。もし、そうなればフフ……。あなたや柚葉ちゃんだけじゃない。白石さん、あなたの家族ともわたしは仲良くしなければならないわ。二人だけの密接な関係をこれからも築いていきましょう? ね、白石さん』

『はい……』


 白石は弱弱しく、城ケ崎に返事をしていた。


「録音はここまで」


 メリアはそう言うとすぐ、僕の膝上のスマートフォンを拾い上げた。


「ありがとう、メリア。おかげで全部がわかったよ。物置小屋に現れたライダースーツの二人の正体。あいつらは城ケ崎と白石だったんだな。僕らに素性を悟られないようにフルフェイスで顔を隠して。でも君が機転を利かせて、スマホを置いてくれたおかげで事態は明るみになって……、メリア?」


 ふと僕が顔を上げると、メリアは何やら真剣な表情を浮かべているようだった。


「ごめん、長く話しすぎた?」

「えっ? ああ、いやごめんなさい。ちょっと考え事をしていて……。そうね、確かに直也の言うとおりね」

「意外だな。君みたいなきっぱりした人でもボーッとする時もあるんだね」

「ボーッと……?」


 メリアがじとーっとした目で僕のことを強く睨みつける。


「あっ! いや、ごめん。君は人じゃなくて天使だった。言い間違えはよくないよな」

「そっちに怒ってるんじゃないんですけど……」


 へっ? じゃあ何でメリアは機嫌を損ねたんだ?


「まあ、いいわ。それより、この後のことなんだけど……」

「もちろん、すぐに助けに行く!」


 ベッドから起き上がった僕は、一目散に保健室から飛び出ようとした。


「待って」


 取っ手に手をかけたその時、強い口調でメリアが僕のことを呼び止める。


「助けに行くって直也。あんた今、妹さんがどこにいるのかわかるの?」

「そりゃわかるだろ! 城ケ崎の家にいるって録音に入っていたじゃんか」


 メリアの奴、何を言っているんだ。今は一刻も争うというのに!


「だから、その家がどこにあるのかって言ってんの。あんた、家の場所わかる?」

「家の場所……」


 メリアに諭された僕は少し冷静になって考えてみた。


「確かにわからない」


 僕はドアにかけていた手をおろした。


「直也、さっきの物置小屋での戦いで、悪魔にはわたしたちがすぐそこまで迫っていることを悟られたわ。妹さんを救い出すためにも、ここからは慎重に動かなければならない」

「それはわかっているよ。でも、どうしたら……」

「耳を貸して」


 意気消沈している僕に対し、話しかけてきたメリアの作戦の内容は至ってシンプルだった。すぐに実行すべく、急いで僕は保健室を後にした。

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