第18話 令嬢は城下町へ出掛ける③

 切り立った崖の上にそびえ立つ白亜のスペンサーグ公爵邸の背後には、雲を戴く雄大な山々が屏風絵びょうぶえのごとく連なり、澄み切った空に向かって天へと続いていくかの錯覚を覚えさせる。

 邸宅を取り囲むのは、分厚く堅牢けんろうな石壁、その重厚な作りは、侵入者を一切寄せ付けない鉄壁の威圧感を放ち、近づく者に冷たく厳しい印象を与える。

 さらにその石壁の外側には深い森が広がり、自然の盾として邸宅を外界から隔てている。その森は四季折々の顔を見せ、静寂に包まれた木々の中には、どこか神秘的で近寄りがたい空気が漂っている。


 厳重に守られる中、邸宅と外界を繋ぐ門は、南側に位置する威厳に満ちた正門と、東側にひっそりと佇む使用人専用の小さな裏門、この二つだけだとされている。

 だが、それはあくまで表向きの話に過ぎない。知る人はほとんどいないが、人目につかない邸宅の西北方向にある廃園には、ひっそりと隠された裏門が存在しているのだ。


 数年前汚染された庭園と共にほぼ使用しなくなったが、古びた扉にはいまだ強力な魔術で閉じられている。スペンサーグ公爵家の直系の血筋を継ぐ私には、その魔術を解く権限がある。


 早めの朝食を済ませた後、私はライラ案内に従い、周囲の目を巧みに避けつつ足早に廃園への小道を進んでいた。

 ひんやりとした朝の空気が肌を刺し、足元には濡れた落ち葉が敷き詰められ、音を立てないよう歩いているつもりでも、その踏みしめる音がやけに大きく耳に響いた。

 心臓は早鐘のように打ち、鼓動が耳に響く。誰かに見ているのではないかと、不安が募るたびに背後を振り返ってしまう。


 こんな格好、誰かに見られたら、どう説明するでしょうか?


 けれど、そんな私とは対照的に、ライラは全く動じる気配を見せない。獣人特有の軽やかな動作で、曲がりくねった小道を迷うことなく進んでいく。その足取りは実に軽快けいかいで、マントの下から出ている、ふわふわとした尻尾が、どこか愉快げに振られているのが見える。

 彼女の頼もしさに引っ張られるように、私はその後ろを追う。


 やがて、私たちは無事に廃園の裏門にたどり着いた。いつも行き来する道も、周囲を気にしながら早い速度で走ってくるので、普段運動不足気味の私は少し息が上がっていた。


 深呼吸をして息を整えながら、私は草花に半分覆い隠された錆びついた裏門に、そっと指先で触れた。

 年嵩のメイドたちの世間話で耳にした、この裏門。それが本当だと信じてここまで来たけれど、いざその門の前に立つと、不安が胸をよぎる。


 もし話が違っていたら、どうしましょう……


 しかし、その心配はすぐに消えた。

 私の手が門に触れると、すぐに「ガチャン」と小さな音が響き、重そうな見た目に反して、まるで最初から魔術が掛けていないかのように、門は驚くほど簡単に開いた。


 少しの躊躇いの後、私は門を通り抜けた。

 あっさりと抜け出した公爵邸を背に、しばらく呆然と立ち尽くしていた。


 過去の私は、13年間このスペンサーグ公爵邸に住んでいながら、一度も城下町へ行ったことがなかった。何の疑問もなく、ずっと自室に引き込んで、外の世界を知らないまま過ごしてきた。


 しかし今、私は生まれて初めて、自分の意志で、公爵邸を出た。この広い領地のどこかへ足を踏み出そうとしているのだ。

 それが公爵家の令嬢としていかに軽率けいそつな行動であるかは理解している。良くないこと、悪いことだと頭ではちゃんと分かっている。


 それでも、私の心は抑えきれない静かな高揚感に包まれていた。まるで、ずっと閉じ込められていた鳥籠から解き放たれ、初めて外の空気をそっと吸い込むような感覚だ。


「お嬢様?どうかなされましたか?」


 ライラの冷静な声に、私ははっと我に返る。


「ううん、なんでもないの、行こう」


 軽く頭を振り、私は勢いよく、薄暗い森の小道を歩き出す。

 けれど、数歩進んだところで、すぐにライラの声が飛んでくる。


「お嬢様、城下町へ向かう道はそちらではございません」

「えっ、そうなの?!」

 

 慌てて振り返る私に、ライラはほんの少し呆れたような表情を見せると、無言で正しい方向を指し示して、そして、そのまま静かな足取りで先を歩き出す。

 

「ご案内いたします」


 うっ、まったやっちまった……情け無い……


 私は自分の顔が少し赤くなっているのを感じ、照れくささをごまかすように、小走りでライラの後を追いかけた。


 時間が静かに流れ、太陽が地平線の向こうから顔を出し始めた頃、森の中にも微かな陽光が差し込み、木々の隙間から柔らかな光が足元を照らしていた。

 葉擦れの音がささやくように響き、小鳥たちの鳴き声が遠くから風に乗って届いてきた。落ち葉を踏みしめる度にカサリと音がする以外は、私とライラの間に会話はなかった。

 森の澄んだ空気は心地よかったが、沈黙を破る言葉が見つからず、私たちはしばらく無言に歩き続ける。


 出発前に何度も確認した地図によれば、公爵邸の南側に位置する正門から、スペンサーグ城に居を構える貴族たちの屋敷が並ぶ貴族区域までは、約2キロメートルにわたって整然とした石畳いしだたみの大通りが続いて、その両側は鬱蒼うっそうと茂る深い森に囲まれている。

 貴族区域のさらに進むと、ミドリム川が流れ、貴族区域と平民区域を隔てる自然の境界線となっている。この川に架かる橋は、大通りと直結しており、両区域を結ぶ唯一の道でもある。


 私たちが『城下町』と呼ぶのは、主に川の向こう側に広がる平民区域を指している。川の両岸には其々商店街が立ち並び、北側は貴族専用の高級店が並び、南側には少し裕福な平民たちが利用する店舗が集まっている。

 お母さんが私に送った店舗は城下町の商店街の一角にある。


 しかし、毎日公爵邸へ執務のために屋敷から公爵邸へ向かう貴族たちと鉢合はちあわせるかもしれないので、正門からの大通りを歩くのは避けたい。

 私たちが今いる位置は西北側の裏門に近い場所、道は平坦とは言えないが、やはりこのまま森道をまっすぐ進む方が人目が避けられるし、気楽でいいだろう。


 ただ、それでも城下町の商店街まで歩けば、おおよそ1時間半の道のりになるはずだ。

 加えに、今の私の小さな歩幅では、2時間近くかかるかもしれない。


 そう考えると、もしこの2時間が沈黙のまま続くとしたら……嫌だな……


 やや斜め前を歩き、今も案内する姿勢を崩さない、頼もしいライラの背中を見つめながら、私は何か面白い話題がないかと頭を巡らせる。

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