第17話 令嬢は城下町へ出掛ける②
アストラル王国では、中央に位置する王都を王室が直接治めており、国の政治と文化の中心地として君臨している。王都から東西南北の四方へと広がる領地は、それぞれ有力な貴族たちに任されており、彼らは王家に忠誠を誓いながらそれぞれの地を管理している。
その中でも、スペンサーグ公爵家は東部地域の最大勢力として、その名を轟かせている。彼らの治める領地は、王都から東へ馬車で約一カ月の距離にあり、遠方に位置するため、王都の影響を受け難い。
そのため、この地は独自の文化と自治を育み、土地の人々に誇り高い気風を与え続けている。
領地の広さは東西約800キロメートル、南北約500キロメートルと、まさに広大な規模を誇る。その地形は多様性に富み、そびえ立つ山脈や深い森林、広がる平原があり、さらに港や街道といった交易の要衝も点在している。これらの条件が、この地をアストラル王国における政治的・経済的な要となる地域にしている。
スペンサーグ公爵家の領地は、公爵家の居城である、家名を冠した直轄地『スペンサーグ城』を中心に広がっている。堅牢な城壁に囲まれた広大なスペンサーグ城の敷地内には、賑わいを見せる市場や壮麗な文化施設が立ち並ぶ。東方との交易が盛んなため、城下町には異国の商人や旅人が行き交い、色とりどりの文化や技術が交差する、華やかで活気あふれる場所となっている。
直轄地の外側には、家臣や傍系親族が管理する封土や、自治村が点在している。それぞれの地域には個性があり、山間部では鉱石や薬草が採れ、平原では豊かな農作物が育ち、港町では異国との取引が盛んで、森の村では木や石を使った精巧な工芸品が作られているなど、各地がそれぞれ独自の役割を果たし、公爵領全体の繁栄を支えている。
この広大な土地を統治するのは容易なことではないが、スペンサーグ公爵家は代々、卓越した知略と高潔な品格を備えた統治者を輩出してきた。その手腕により、この地は長きにわたり繁栄を謳歌し、人々に安定と豊かさをもたらしているのである。
……などと、まるで知った風に思い返しているけれど、実際のところ、私はスペンサーグ公爵家の令嬢でありながら、領地に関する知識はすべて家庭教師の教えや書物から得たものに過ぎない。
***
今日は城下町へ出かける日、やりたいことが山ほどあるのだ!
屋敷の人目を避けて出る必要があるため、私はまだ空が薄く青みを帯びた早朝に、ウキウキの気持ちで目を覚ました。
今なら、屋敷の中はほとんど人の気配がなく、使用人たちの姿もまばらだ。まさに、『隠密行動』にはうってつけの時間帯である。
ベッドから起きると、すぐに椅子の上にライラが準備してくれたメイド服が見えた。その隣には茶髪のカツラ、笑顔を模した白い仮面、そしてフード付きの黒いマントまでも添えられていた。
ん?カツラは理解できるけど、仮面とマント?仮装舞踏会でもないのに?
疑問に思いながらも、私はライラを信じ、彼女が用意してくれたものを全て身に着けることにした。
しかし、いざ着替えてみると、やはりこの格好、どう考えてもおかしい気がする。
カツラはともかく、茶髪は目立たないから大丈夫だが、昼間に顔を隠すための仮面をつけ、黒いマントを羽織り、さらに思わずフードを頭に被ったその姿は、完全に不審者そのものだ。
これでは、目立たないどころか、むしろ注目を集めるのではないでしょうか。
鏡の中の自分を見つめ、あれこれと体の向きを変えて確認する。前方、左右、そして背後……
うわっ、やっぱり恥ずかしいです。
「フリージアお嬢様、支度の準備は整いましたか?」
ライラの声が扉越しに聞こえてきた。部屋の中で私がもたもたしていることに気づいたかもしれない。
軽くノックの音がした後、ライラは扉を開けて部屋へ入ってきた。
「ライラ、この格好、変ではないかな?仮装舞踏会でもないのに、こんなに目立つ格好じゃ、逆に怪しまれる気がするの」
私は段々不安になり、ライラに尋ねた。
彼女の判断を信じないわけではないけれど、どう考えてもこの姿、いかにも不審者にしか見えないのだ。
「ご安心ください、お嬢様がどんな格好をされても、市井では目立つ存在に変わりません。それなら、むしろこういった装いの方が、周囲に正体を悟られず、逆に近寄らない印象を残した方が、よろしいかと」
私の心配をよそに、ライラはまるで当然といった顔でそう言い切った。その自信たっぷりな態度に、かえって私は何も言い返せなくなる。
確かに私は不気味な顔をしているので、一般人に紛れるよりも、マリンさんみたいなホラー小説の怪物たちの中にいた方が馴染むかもしれないが……
そうはっきり言われると、泣きそうです……
私が感傷に浸っていると、ふと視界に黒いマントを羽織ったライラの姿が映り込んだ。彼女の手には、私と同じデザインの仮面が握られている。
これは……出掛ける準備?
「ライラ、私は一人で街へ行くつもりなんだけど……」
そう告げると、ライラはきりっと眉を上げ、即座に反論してきた。
「私はフリージアお嬢様の専属メイドです。お嬢様が不在の間、何もできないのは本意ではありませんので、お供いたします」
「えっ、ですから、ライラにはお留守番を頼もうと思って……」
「万が一お嬢様に何かございましたら、それは私の責任問題です。ですので、お供させていただきます」
その毅然とした態度に、 思わず言葉を詰まらせた。
万が一何かあったら、確かにライラに全責任を負うことになるし、ライラが一緒に来てくれたら、すごく心強いが、でも秘密が……
「でも、もし私が不在の間に誰かが私を探しに来たら……」
――あるわけないけど。
「誠に残念ながら、すれ違いが起こってしまったようです。その頃、私たちは廃園で過ごしていましたから」
言い訳までもすでに考えたのね、私は心の中で葛藤しながらも、「でも……」とつぶやくのがやっとだった、反論する理由が見つからない。
ライラの譲らない姿勢に、結局、やはり私のほうが先に折れてしまった。
「わかった、ありがとう、ライラが一緒に来てくれるの、すごく心強いわ!……でも、これも秘密事項だからね?」
ライラの口元がわずかに上がり、翡翠色の瞳がほんのり細められ、その表情にはどこか満足げな色が宿っていた。彼女は軽く頭を下げ、落ち着いた声で応える。
「はい、存じています、フリージアお嬢様」
その口調は相変わらず硬くて丁寧だけれど、柔らかさを帯びた表情に、不意に胸がじんわりと温かくなって、どこか、心が猫に軽く触れられたような、くすぐったい感覚が広がる。
少しだけ、ライラに心を開いてくれたのかな?
そんな小さな期待が、胸の奥でそっと芽吹いた。
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