第17話 恋に落ちないと出られない部屋③

 白い箱のような部屋に、凌と二人きり。マリリンの姿は、もうどこにもない。きっと、どこか別の場所でリリィたちの様子を観察しているのだろう。


 部屋の中にあるのは、ドアノブのついたピンク色の扉だけ。それ以外は本当に何もない。静かで、殺風景で、なんだか息が詰まりそう。


 あの扉を開けるには、恋に落ちなければならない。どちらかが相手に恋心を抱かない限り、この部屋から出ることはできないらしい。


 リリィはチラリと凌の様子を伺った。すると彼もリリィを見ていたらしく、不意に視線がぶつかる。


「「あっ……」」


 二人の声が重なり、それぞれ慌てたように目を逸らす。間違いない。きっと凌も、今の状況を妙に意識しているんだ。


 気まずい沈黙が流れる。……マリリンめ、とんでもないことをしてくれたものね。後でうんと仕返しをしてやらなきゃ気が済まないわ。


「……ねぇ、凌」


「な、なに?」


「あんた、今まで恋をしたことはあるの?」


「……ないよ」


 それぞれ別の方向を向いたまま、ゆっくりと会話が続く。


「今まで人を好きになったこともないし、告白されたこともない。だから……好きって気持ちが、よくわからないんだ」


「ふーん……」


 そういえば、前もそんなことを言っていたな。彼は長い間、両親と離れて暮らしている。愛情に触れる機会が少なく、本当の愛を知らない。だからこそ、リリィの魅了が通用しないのだ。


 ……かわいそうに。


 凌の両親は、どこで何をしているのだろうか? 彼をほったらかしにしてまで、遠くでお仕事をする必要があるのだろうか?


「そういうリリィはどうなの?」


「へっ?」


「その……恋、したことあるんじゃないの?」


 エリートとしてのプライドが、返答を悩ませる。本来なら、ここは嘘でも『ある』と言った方が格好がつく。しかし――。


「……ないわよ」


 リリィは正直に答えた。今回ばかりは、なぜか凌に対して嘘をつくことができなかった。


「そ、そうなんだ。サキュバスなのに、ないんだね。ふーん、そっか……」


 なぜか凌は安堵したように微笑んでいる。少し悔しくなったリリィは、すかさず一言追加した。


「べっ、別にいいじゃない! 世の中には、恋愛下手なサキュバスだっているのよ!」


 サキュバスにもいろんな性格のがいる。しかし、基本的には色恋に対して貪欲で、経験豊富な娘が多い。恋は相手を確実に魅了する手段の一つ。そして恋心は、甘美な『精力』を多量に生み出してくれる。


 つまり恋をすることは、サキュバスに備わった本能なのだ。男の『精力』を搾取するためには、恋人になったり、時に裸の関係になることもやぶさかではない。


 しかしリリィは違った。サキュバスなのに、今まで色恋沙汰の一つも経験したことがない。いや、する必要が無かったのだ。なぜなら、少し肌を見せるだけでどんな相手も魅了することができたから。


 エリートであるがゆえの代償。リリィは、恋を知らずにここまで育ってきたことに対し、密かにコンプレックスを抱いていた。


 ……そんなとき、凌と出会ったんだ。


 凌は他の男たちと違う。あの手この手を尽くしても、彼を魅了することができない。もしかしたら、今後も魅了できないかもしれない……そんな危機感すら感じている。


「そっか。……なんだか僕たち、似たもの同士だね」


 凌が柔らかく微笑みかけてきた。その優しい笑顔を見て、リリィの胸がトクンと高鳴る。


 ……もう。なんなのよ、この気持ち。


 得体の知れない感情。ひょっとして、これが『恋』なのだろうか? もしそうだとしたら、リリィはこの部屋の扉を開け、脱出することができるはず。


 でも、もしリリィが扉を開けてしまったら、凌に対する恋心を認めることになる。それはまるで、彼に敗北するような気がして……リリィのプライドが許さなかった。


 ……やだ、負けたくない。凌を魅了するためには、彼の方からリリィに惚れさせなきゃいけないんだ。


 複雑な乙女心を抱きながら、凌の顔をキッと睨みつける。互いに、少しずつ頬が紅潮していく。そして数秒間――。リリィの頭に、素晴らしいアイディアが舞い降りてきた。


「……ねぇ。私、いいこと思いついちゃった。もしかしたら、あの扉を開けられるかもしれない」


「き、奇遇だね。ちょうど僕も、いい案が思いついたんだ」


 別に示し合わせたわけでもなく、合図をしたわけでもなく……。ごく自然に、二人の声が重なった。


「「二人で、同時に扉を開けてみようよ!」」

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