第11話 催眠術②

 リリィは知らなかった。マリリンが開発した『ナイトメアの尻尾』には、催眠効果だけでなく、力を引き上げるバフ効果もあったことを……。


 凌はリリィのジャケットに手をかけ、ファスナーを勢いよく下ろす。必死の抵抗も虚しく、あっという間に上着を脱がされてしまった。


 ちょっ、これ……本気でヤバいかも!


 リリィは貞操の危機を感じ、手足を激しくバタつかせる。どうして、いきなり暴走しちゃったの!? まさか、さっき私が『!』って言っちゃったから!?


「こ、こら! めっ! 待て! おすわり!」


 大声で叫ぶが、狂犬と化した凌はまるで聞く耳を持っていない。当然だ。今の彼は『リリィのことが好きで好きで仕方ない犬』。目の前に大好きなご主人がいて、一度『』と言われた以上、欲を満たすまで止まることができないのだ。


 凌の顔が徐々に近づいてくる。リリィの首筋に鼻を擦りつけ、そのまま犬のようにクンクンと嗅ぎ始めた。


「ひゃん! ……も、もう! やめてよ!」


 生暖かい吐息を感じながら、リリィは必死に身をよじる。……くっ、ダメだ。やはり力では到底敵わない。いっそのこと、魔法で吹き飛ばしちゃおうか?

 ……いや、それはできない。魔力抵抗のない凌の身体は、きっとひどく傷ついてしまうから。

 かといって、このまま何もせず凌に食べられるわけにもいかない。一体どうすれば……。あっ、そうだ!


 リリィは、マリリンの言葉を思い出した。


――催眠術は、時間が経てば自然に解ける。じゃが、もし強制的に解きたいのならば、目を合わせて相手の名前を叫ぶのじゃ! よいな――


「な、名前を……」


 リリィは戸惑っていた。凌の名前を、面と向かって呼んだことは一度もない。それなのに、よりによってこんな状況で……。


 そんな中、凌は一旦リリィの首筋から離れた。どうやら『味見』は終わったようだ。リリィをじっと見つめながら、ゆっくりと唇を尖らせる。


「ちょ……ま、まさか……!」


 リリィは恐怖で顔を歪めた。凌の唇が、少しずつリリィの唇に近づいてくる。距離は数センチずつ、だが確実に縮まっていた。


 マズい! このままじゃ、ファーストキスを奪われちゃう!!


 覚悟を決めたリリィは、凌の瞳をまっすぐに見つめ、大きな声で叫んだ。


「――凌! いい加減、目を覚ましなさい!!」


 時が止まったかのように、凌の動きがピタッと止まる。唇同士の距離は、わずか二センチくらい。鼻先は、すでに軽く触れている。本当に危なかった。

 数秒後、凌は崩れるように倒れ、そのままリリィにのしかかった。


「わっ!? ちょ……!」


 リリィは咄嗟に顔を背けつつ、彼の身体を抱きしめるように受け止めた。全身で凌の重みを感じる。耳元では、心地よさそうな寝息が聞こえた。


「凌……?」


 声をかけても返事はない。どうやら完全に眠ってしまったようだ。良かった……。リリィはそっと凌の身体から離れた。


「はぁ、はぁ……ふ、ふぅ……」


 リリィの呼吸は乱れ、全身が熱く火照っている。汗が身体中から滝のように滴り落ちていた。

 一度大きく深呼吸し、再び凌に目を向ける。幸せそうな彼の寝顔。リリィの視線は、自然とその唇に吸い寄せられる。もし、催眠術を解くのがあと数秒遅れていたら、あれに触れていたかもしれない。


 ……どんな感触なんだろう? 柔らかいのかな?


「ふ、ふん! ファーストキスは、満点の星空の下って決めてるんだからね!」


 リリィは無意識に自身の唇を撫でながら、またしても顔を赤く染めるのだった。



 数分後、凌がゆっくりと目を覚ました。


「あれ……? 僕、いつの間に寝ちゃってたの……?」


 大きなあくびをしながら、隣に座るリリィに目を向けた。彼女はなぜか背中を向けており、頑なに凌を見ようとはしない。


「……ねぇ。そういえば、催眠術はどうなったの?」


 凌は眠そうな声で尋ねる。危うく一線を越えそうだったが、幸い記憶は残っていないようだ。


「……知らない」


「えっ? どういうこと?」


「知らないわよ! 凌のバーカ!」


「えぇ!? いきなり何!?」


 突然の悪態に、凌は無理やり叩き起こされたかのように驚いた。リリィは背を向けたまま、さらに追い討ちをかけるように彼をののしり続ける。


「ふんだ! 凌のあんぽんたん! 凌のおたんこなす! 凌の、凌の……ぽんぽこりん!」


 リリィにとって、初めて凌の名前を呼べたことが相当嬉しかったのだろう。無意識のうちに顔が緩み、とても見せられないほどニヤけていたのだった。

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