第11話 催眠術①

「催眠術?」


「うん、最近ハマってて。ちょっとだけ試してみたいなーって思ったの」


 リリィは、再び凌の家へ遊びに来ていた。いや、彼女にとってこれは遊びではない。天下分け目の戦いのようなもの。彼の部屋に足を踏み入れた瞬間から、リリィはすでに戦士だった。


 ……今日こそ決着をつけてやる。この『ナイトメアの尻尾』で。


 リリィが鞄から取り出したのは、マリリンからもらった魔法グッズの一つ。ナイトメアという、黒い馬のような魔物の尻尾を、魔法の力で加工したものだ。

 これを相手の目の前で揺らすだけで、催眠術にかけることができるらしい。どんな命令でも従うようになるとのこと。


 今回の作戦は簡単だ。凌に催眠術をかけ、従順な犬にしてみせる。おすわりやお手をさせたり……ち、ちんちんとかもさせちゃったりして!?


 リリィは心の中で様々な妄想を繰り広げ、密かに頬を赤らめた。


「あんまり、そういう迷信じみたものは信じないな」


 一方の凌は、相変わらず無表情でため息をついている。またリリィが、何かろくでもないことを企んでいる……とでも言いたげな態度だ。


「バカね。そういう人に限って、術にかかりやすいって相場が決まってるのよ」


「そうかな……?」


「まぁ、百聞は一見にしかず。とにかく試してみるわよ!」


 リリィは凌と向かい合い、フサフサの黒い尻尾を彼の前に垂らした。人間の凌には見えないが、尻尾からは不気味な黒いオーラが溢れ出ている。


「よーく見てなさいね。一瞬でも目を逸らしちゃダメ。瞬きも禁止よ」


「き、厳しいなぁ……」


 凌は文句を言いつつも、目を大きく見開いた。その澄んだ瞳が、揺れ動く尻尾をじっと追いかける。


 ……な、なんて綺麗な瞳なのかしら。


 リリィの心は揺れていた。こうして凌の瞳をまじまじと見つめることなんて、今まで一度もなかったから。

 凌は尻尾を見つめ、リリィは凌の瞳を見つめる。そんな不思議な時間が、およそ30秒ほど続いた。



 そして、ついに変化が訪れた。見開かれていた凌の瞳が、まるでとろけるようにゆっくりと閉じ始めたのだ。リリィはニヤリと笑みを浮かべ、眠りに落ちていく凌を見守る。


 やがて完全に眠ってしまったのを見計らい、リリィは彼の耳元でそっと呟いた。


「さぁ。アンタは今から、私のことが好きで好きで仕方ないワンちゃんになるの。分かったら返事をしなさい」


「はい」


「こら、違うでしょ? 犬はなんて鳴くのかしら?」


「……わん」


「はい、よくできました」


 やった! 大成功だ! リリィは力強くガッツポーズをする。目の前には、すっかり目がすわった凌が、ぼんやりとリリィだけを見つめていた。


「じゃあ、まずはおすわり」


 リリィの指示に従い、凌はゆっくりと正座をする。うんうん、上出来だ。


「次は、お手」


 リリィが差し出した右手に、凌は自身の右手をそっと重ねる。握るわけでもなく、ただ静かに乗せているだけだ。


 ……温かい。それに、少しだけ私の手より大きい。


 彼の手のぬくもりを感じながら、リリィの心臓がトクンと高鳴った。いっそこのまま、ずっと凌に触れていたい……いやいや! それじゃダメよ! しっかりしなきゃ!


 リリィは首を振り、恥ずかしそうに次の命令を下した。


「……ち、ちんちん!」


 凌は無言で立ち上がり、両手を前に構えて幽霊のようにだらんと垂らした。その姿はあまりにも無防備で、愛くるしさに溢れている。


 ……か、かわいい!


 リリィは思わず両手で口を押さえた。すわった目でこちらをじっと見つめる凌は、次の命令を今か今かと待ち続けている。他の行動を取ろうともしていない。


 そっか……。今の凌は、リリィのためだけに生きている。彼にとってリリィが全てであり、存在理由そのものなんだ。そう考えると、優越感で胸がいっぱいになる。


! いい子いい子!」


 凌の頭を優しく撫でると、彼は嬉しそうに微笑んでくれた。あの仏頂面が、ここまで笑顔になるなんて……これはもう、魅了したも同然ね! と、リリィは心の中で勝利を確信した。


 しかし、次の瞬間――! まるで首輪が外れたかのように、凌が突然リリィを押し倒す。そのまま覆い被さるように馬乗りになった。


「ちょっ……ちょっと、なに!?」


 リリィは彼を押しのけようとするが、すぐに両手を抑え込まれてしまった。必死に抵抗してみたものの、なぜかびくともしない。


 ど、どうして!? 人間の凌が、こんなに強い力を出せるはずないのに……!

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