第8話 しゃせい②

 リリィは顔を真っ赤に染め、凌を強く睨みつける。


「ばかっ! 変態! 破廉恥はれんち! どうして男って、エッチなことしか考えてないの!?」


「えっ!? だって、リリィがモデルをしてくれるって言ったから……」


「だからって、思う存分に『しゃせい』だなんて……! いくら何でも早すぎでしょ! 学生の間は胸を揉むまでって言われたのに!!」


「む、胸……!? 一体、何を……」


 凌は言いかけて、目を大きく見開いた。そして小さくため息をついたのち、呆れたような口調でリリィをなだめる。


「リリィ、落ち着いて。『しゃせい』って、スケッチのことだよ。それ以外の、やましい意味は無いから……」


「えっ……」


 リリィはようやく、自身が勘違いしていたことに気づいた。恥ずかしさと、凌への申し訳なさが同時につのる。しかし、口をついて出たのは怒りの言葉だった。


「あ、アンタが紛らわしい言葉を使うから悪いのよ!」


「リ、リリィだって……普段からエッチなことを考えてるから、変なふうに勘違いするんだよ」


「わ、私は別に――!」


 ガチャ。


 二人の口論を遮るように、突然部屋の扉が開いた。


「失礼します。お茶をお持ちいたしました」


 尾岩さんが、お盆に湯呑みを乗せて部屋に入る。リリィと凌は、まるで一時停止ボタンを押されたかのように固まり、部屋全体が一瞬で静まり返った。尾岩さんは無表情のまま湯呑みを置くと、そそくさと退出していく。


「……いいですか、お二人とも。くれぐれも、早まった行動は慎むように」


 扉越しに響く忠告に、リリィと凌は無言のまま顔を見合わせた。


「……じゃあ、始めようか」


「そ、そうね……」


 何事もなかったかのように、二人は写生の準備に取り掛かるのだった。



 凌はスケッチブックと筆記用具を持ち、リリィの前に座り込んだ。


「ねぇねぇ、どんなポーズがいいかな?」


 なぜかノリノリのリリィに対し、凌は真剣な表情でスケッチブックに向かっていた。


「うーん、おまかせするよ。今日はまず、リリィの特徴を掴むことが大事だから」


「あっそう……」


 微妙な温度差を感じつつ、リリィは腰に手を当てて、無難なポーズをとった。



 カリカリと、紙と鉛筆が擦れる音が静かに響く。数分、十数分……。同じ姿勢を続けることに飽きてきたリリィは、ふと気になっていたことを凌に尋ねた。


「ねぇ。どうして、リリィの絵を描くようになったの?」


「……別に、深い意味はないよ。ただなんとなく、リリィを描きたいなって思っただけ」


「ふーん……」


 ……いや、絶対に嘘だ。リリィにはわかる。凌は何かを隠しているはず。リリィのイラストを描き続ける、明確な理由があるに違いない。

 知りたい、もっと凌のことを。彼の心の奥底にある、本当の想いを。


「あぁ、ちょっと動かないで……って、リリィ!?」


 凌は驚きのあまり、手に持っていた鉛筆を床に落とした。リリィはジャケットのファスナーを勢いよく下ろし、あっという間に脱ぎ捨ててしまった。彼女の滑らかな白い肌が、部屋の空気に触れる。


「リリィの特徴を掴みたいんでしょ? 薄着の方が、細かいところまでよく見えるじゃない」


「で、でもそんな格好……こ、困るよ!」


「あらあらぁ? 絵描きがモデルをそんな目で見るなんて、野暮だよねぇ?」


「くっ……べ、別にそんなつもりじゃないし!」


 凌は焦りながら、逃げるようにスケッチブックに視線を戻す。その姿を、リリィは勝ち誇ったような笑みを浮かべて見下ろしていた。


 ……あぁ、これだ。最初からこれが見たかったんだ。凌が恥ずかしがる姿、困ったような表情。無理をして平然を装おうとしている、その健気さ。


 可愛いなぁ。もっと困らせたい。もっともっと、色んな表情を引き出したい……!


 リリィの瞳が、妖しい紫色に光る。それは、サキュバスとしての本能が剥き出しになった証拠だった。目の前のえものを魅了するために、露出した肌にありったけの魔力を込めていく。

 さらに、リリィはホットパンツの裾を軽くめくり、太ももとお尻の境目をちらりと見せた。その仕草に反応してか、凌の呼吸は明らかに荒くなる。顔はもう真っ赤だ。


 ……あぁ、最高! ついに、凌を完全に魅了できるんだ!!


 勝利を確信したリリィのよろこびは頂点に達していた。歯止めが効かなくなったのか、今度はショートキャミソールの裾をめくり上げる。彼女のたわわに実った下乳は、どんな熟れた果実よりも甘美な魅力を放っていた。


 さぁ、さぁ……! 次は、一体どんな反応を見せてくれるの……!?


 リリィは凌の表情を確認するが、彼の様子がおかしい。青白い顔で、瞬き一つせずに固まっている。不思議なことに、鉛筆を持つ右手だけがしきりに動き続けていた。

 大きく見開かれた瞳は、ある一点を集中して見つめている。一体何が起こっているのだろうか……?


 ちょっと待って。彼は今、私のどこを見て、何を描いているの? 胸? お尻? それとも、別のところ……?


 少しずつ冷静になると、途端に恥ずかしさが込み上げてきた。今の私、ひょっとしてとんでもなく破廉恥な格好をしている!?


 いや、百歩譲って見られるだけならいい。しかし、イラストとして残ってしまうとなると話は別だ。一瞬の気分の昂りが、一生の黒歴史になってしまうかもしれない。


 一旦ジャケットを着る……? いや、自信満々に脱いでしまった手前、途中で着るのはプライドが許さない。一体どうすれば……?


「ね、ねぇ。まだ描き終わらないの……!?」


 リリィはもじもじしながら、駄目元で凌に尋ねる。しかし、彼からの返事はなかった。


「ねぇ、ねぇってば……あれ?」


 驚いたことに、凌はリリィを見つめたまま気絶していた。無理もない。彼にとって、今のリリィの格好はあまりにも刺激が強かったのだ。

 しかし、彼は絵描きとしての本能だけで鉛筆を動かし、それはそれはエッチなイラストが完成していた。


 一方で、リリィの目には、凌の姿が次のように映っていた。


「目を開けたまま……寝てる!? この私の身体を前にして、居眠りをする余裕があるってわけ!? 私の身体に、緊張感を感じるほどの魅力はないってこと!?」


 プルプルと身体を震わせながら、思い切り地団駄を踏む。自身が大きな勘違いをしていることも知らずに……。


「ねぇ! ねぇねぇ! 私の気持ちを、返してよー!!」


 まるで子供のように泣き叫ぶが、当然凌の耳に届くことはなかった。

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