第8話 しゃせい①

 ピンポーン。


 爽やかな朝の日差しを浴びながら、リリィは凌の家のインターホンを押す。ここに来るのは、これで何回目だろうか。

 今日は友達として、凌の家へ遊びに来た。一つ屋根の下、若い男女が二人きり……。一体、何をするつもりなのだろうか?


 ひょっとして、リリィの身体を使って、何かいけないことを……!?


「だ、大丈夫よリリィ! 以前の私とは違う。もしそんなことをされそうになったら、ぶん殴ってやればいいんだから!」


 顔を赤らめながら、自分に言い聞かせるように独り言を呟く。その直後、玄関の扉が開いた。リリィは反射的に身構える。しかし――。


「――どちら様でしょうか?」


 出てきたのは凌ではなく、無表情の若い女性だった。白いエプロンを身につけ、長い黒髪を後ろでコンパクトにまとめている。


 ……いや、誰?


「あっ……えっと、私は……」


 突然現れた女性に対し、リリィは挙動不審になる。誰だ、この美人は? 凌のお母さん……にしては若すぎる。ご親戚か何かだろうか?


「あなた……ひょっとして、リリィ様でしょうか?」


「えっ……あっ、そうだけど……」


「凌おぼっちゃまからお話は伺っております。どうぞ、中へお入りください」


「お、おぼっちゃま……?」


 女性は深々とお辞儀をすると、呆気に取られるリリィを家の中へ招き入れた。



「まさかおぼっちゃまが、お友達を家に招く日が来るなんて……。本当に喜ばしい限りです」


 無駄に長い廊下で、女性はリリィの少し前を歩く。抑揚のない低い声、そしてのりで貼り付けたような仏頂面のせいで、彼女が何を考えているのか読み取れない。


「リリィ様と出会ってから、おぼっちゃまは少し変わりました。表情が明るくなり、よく話すようにもなりまして……」


「は、はぁ……」


 リリィは何と答えればいいか分からず、曖昧な返事をする。しかし話の内容から察するに、全く歓迎されていないわけではないようだ。


 そんなこんなで、ようやく凌の部屋に辿り着いた。


「こちらがおぼっちゃまのお部屋です。それでは、私はこれで……」


 女性は一礼し、去り際にもう一言付け加える。


「あっ、これだけは言わせてください。……学生のうちは、胸を揉むまでに留めてくださいね。それ以上のことは、大人になってから」


「……は?」


「では、失礼いたします」


 意味深なセリフに、リリィの脳内は激しく掻き乱されたのだった。



「あっ……! い、いらっしゃい!」


 部屋に入ると、凌は慌てたように立ち上がった。その反動で、彼が座っていた椅子が倒れる。


「あ……うん」


 対するリリィは放心状態だった。先ほど女性に言われた言葉が、脳内で何度もリピートされる。


 ……胸を揉むまでに留めろって、どういうこと?


 いや、不慮の事故とはいえ、すでに胸は触られているわけだが……。それ以上のことって、いったい何なのだろうか? も、もしかして――!


「リリィ、大丈夫?」


「はっ! べっ、別に、エッチなことをするために来たんじゃないんだからね!」


「えっ!? エッチ!?」


「あ……」


 しまった。つい思っていたことが口に出てしまったようだ。


「ひょっとして、尾岩さんに何か言われた?」


「尾岩さん……?」


「うちの家政婦さん。週に二回、家の掃除や庭の手入れをしてくれてるんだ」


 ……あぁ、さっきの女性のことか。お手伝いさんを雇えるなんて、やっぱり凌の家は相当なお金持ちらしい。


「すごく真面目な人なんだけど、思ったことをすぐ口にしちゃうところがあってさ。でも根は良い人だから、気にしないでね」


「そ、そう……」


 果たしてあの発言が、真面目という一言で片付けられるのだろうか。まぁ……色々と引っかかる部分はあるけど、一旦忘れることにしよう。


「――で、アンタは何をしていたの?」


「えっ!? いや、その……」


 リリィは見逃していなかった。彼女が部屋に入ったとき、凌が慌てて立ち上がる姿を。まるで何か、見られてはいけないことをしていたような……。

 もしやこれは、凌の弱みを握るチャンス!? リリィは八重歯を見せ、小悪魔のような笑みを浮かべながら、彼の机に近づいていく。


「あっ! だめ……!」


 凌の制止を無視して、リリィは机の上を確認する。そこにあったのは――先日と同じく、彼が描いたと思われるリリィのイラスト。


「ふーん……。こんなの描いてたんだ……」


「あ……いや、その……」


 凌の顔が、じわじわと赤く染まっていく。なによ、照れちゃって。少しは可愛いところもあるじゃない。


「……いいわよ、もっと描かせてあげる」


「えっ?」


「このエリートサキュバスであるリリィが、モデルさんになってあげるって言ってんの」


 リリィは不敵な笑みを浮かべながら、両手を頭の後ろに回して自信満々にポーズをとる。凌はしばらく黙っていたが、やがて気まずそうに視線を逸らしながら口を開いた。


「そ、それって……。つまり、思う存分にさせてくれるってこと?」


「しゃ……しゃしゃしゃしゃせい……!?」


 リリィの頭が真っ白になる。彼女の脳内では、『写生』という言葉が誤って変換されていた。視線が宙を泳ぎ、やがて自然と凌の股間へ流れてしまう。


 ……やっぱりこの男、とんでもない変態だったのね!!

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