第6話 拳で抵抗するサキュバス①

 人影のない、閑静な住宅街。怪しい月明かりに照らされながら、一人の少女がフワリと舞い降りてきた。ピンク色のポニーテールを揺らしながら、軽やかに地面へ着地する。


 ……今日で、地球ともお別れか。


 リリィは、厳しい雷行らいぎょうを乗り越えたことで自信に満ちた様子だった。今日こそは、必ず勝利をつかむ……そんな決意が彼女の表情から伺える。


 瞳を閉じて、あの男を探す。今のリリィは精神力が研ぎ澄まされた状態なので、彼の『精力』を即座に探知することができた。


「……また、あの廃れた公園にいるの?」


 リリィは怪訝そうな顔で首を傾げる。あんな気味の悪い場所で、一体何をしているのだろうか?


 ……まぁ、どうでもいいか。どうせ今日でお別れだし。


 公園に向かいながら、リリィはあの男について振り返る。彼には魅了が効かない。スケルトンキャンディも通用しなかったし、媚薬もまるで効果がなかった。

 それどころか、彼の方がリリィを魅了しようとしてきた。不思議な力でリリィの脳内をピンク色に染め、そのまま貞操を奪おうとした。


 ……本当に許せない。次に妙なことをされたら、もちろん抵抗する。拳で。

 リリィは両手の拳を軽く打ち合わせる。その瞬間、バチバチと赤い火花が飛び散った。


 あの男が本当にインキュバスならば、物理攻撃が弱点のはず。奴らは高い魔力を誇る反面、攻撃や防御はスライム並みに低いから。

 その点はサキュバスも同じ。しかしリリィはエリートなので、幼い頃から弱点を克服する努力を重ねてきた。物理攻撃力には、それなりに自信がある。


 先手必勝であいつを押し倒し、強烈なパンチをお見舞いする。そして弱ったところを……最後はやっぱり、魅了で終止符を打ちたいな。



 リリィの予想通り、例の公園にあの男はいた。地味な外見に、寂しげな背中。人間の皮を被った、卑怯なインキュバスだ。


 ……あぁ。こんなやつに心をかき乱されていたなんて、自分が情けない。


 彼はまだこちらに気づいていないようだ。しめしめ……。リリィは息を潜めながら、静かに彼へ近づいていく。

 しかし、どこか様子がおかしい。まるで雑草に隠れるようにしゃがみ込み、何かを警戒している。それも、かなり怯えているようだ。


 一体何が――?


「グルル……」


 低い唸り声が辺りに響く。見ると、毛むくじゃらの獣がゆっくりと歩いているではないか。ギラギラ光る目に、鋭利な白い牙。まるで魔界に出没する『デスグリズリー』を少し大人しくしたような姿だ。


 あれは確か……クマ……だよね?


「ど、どうして君がここに……!?」


 男がこちらを振り向く。しまった! クマに気を取られている間に、気づかれてしまったか。まさか、これも彼の作戦……?

 きっとそうだ。あのクマは男の使い魔で、ただのおとりに違いない。


 こうなったら、やるしかない! リリィは咄嗟に戦闘体制を整え、頭の中で立ち回りをイメージする。まずは男のあばら骨に右フック。そして、よろけたところを顔面に左ストレートでノックアウトだ! クマは……今はどうでもいい、後回し!

 

「危ない! 逃げて!」


 男が何か叫んでいるが、今は気にしている暇はない。リリィは握りしめた拳を振りかぶった。しかし――。


「グオォ!!」


 クマがもの凄いスピードで割り込んできた。リリィはその突進を、間一髪でかわす。


 ……くそっ。使い魔のくせに、生意気な! そこまで相手をして欲しいのなら、先に片付けてやる!


 リリィはクマと正面から向き合う。こいつの倒し方は知っている。地球について調べたとき、とある文献で読んだのだ。


 二度目の突進をかわしたリリィは、そのままクマの横に素早く移動。か細い腕を目一杯に広げ、抱きつくようにクマの胴体をがっちりと抱え込み、そして……。


 身体の捻りを利用し、勢いよくクマを投げ飛ばした。


「どりゃあー!!!」


 金◯郎顔負けの投げ技が炸裂。巨体が宙を舞い、地面に激しく落ちる。力の差を見せつけられたクマは、か弱い声を上げながら走り去ってしまった――。



 薄暗い公園に静寂が訪れる。聞こえるのは、秋風に揉まれる木々の音だけ。


「す、すごい……」


 男が息を呑んで呟いた。まるで夢でも見ているかのような表情で、リリィをまじまじと見つめている。

 ……ふふっ、怖気付いたか。リリィは口角を上げながら、再び戦闘体制を整える。邪魔者は片付いた。いよいよ決着のときだ!


「さぁ、次はアンタの――」


「あ、ありがとう! 助けてくれて……!」


 男は立ち上がるや否や、深々と頭を下げてきた。その様子を見て、リリィは大きな勘違いに気づく。


 ……あれ? クマは使い魔じゃなかった? もしかして、本当に襲われていたの?


 男は未だに震えている。その怯えた表情を見た瞬間、リリィの拳がわずかに緩んだ。彼からは戦意が全く感じられない。クマに襲われて、相当怖い思いをしたのだろうか?

 ……いや、きっとこれは罠だ。今までだって、この男に散々振り回されてきた。何度もはずかしめを受けてきたのだ。今回だって、リリィを油断させて何かしようとしているに違いない。


 迷っちゃダメ! リリィはもう一度拳を握りしめ、大きく振りかぶった。そして――。


「……ケガは、ないかしら?」


 男の肩に、振りかざした手を優しく置く。そして落ち着かせるように、震える背中をそっと撫でた。何度も、何度も――。



 リリィはエリートだから。こんな無抵抗な相手を一方的に殴るなんて、できるわけがなかった。

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