第2話 賢者タイム②

 男の家はいわゆる『豪邸』で、リリィの想像以上に大きかった。彼女は玄関の隣、リビングと思われる大きな部屋を窓から覗き込む。そこには、テーブルに座り、一人でパンをかじる男の姿があった。


 例の男子高校生だ。


 無駄に広いリビングには彼の姿しか見当たらず、物音一つしない。他に誰もいないのだろうか?

 どう見ても物寂しい光景だが、本人は全く気にしていない様子で、無表情のまま淡々と朝食を摂っている。まるで孤独そのものが日常に染みついているかのようだ。


「何というか……さちの薄そうな男ね」


 哀愁あいしゅう漂うその姿を見て、リリィは小さく呟いた。



 その後、男は家を出て学校に到着した。さぁ、調査開始だ。まずは、現在の彼に性欲があるのかどうかを確認したいところ……。

 おっと、早速チャンスがやってきたようだ! 階段を上る男の先に、女子高生が一人。リリィは透明なのを良いことに、そっと彼女のスカートをめくりあげる。


「きゃっ!」


 女子高生は高い声を上げながら、慌てて捲れたスカートを押さえた。ラッキースケベ、ど定番のスカート捲り。下の段にいる彼からは、色んなものが丸見えだろう。


 ……さぁ、どうだ!?


「……」


 彼は女子高生に見向きもせず、そのまま通り過ぎてしまった。


「なっ……!?」


 リリィは思わず驚きの声を上げる。そんな……あり得ない! 捲れたスカートを前にして、興味すら示さないなんて。これも『賢者タイム』が原因? それとも、性欲そのものが枯れているのだろうか?

 いや……まだだ。まだ調査は始まったばかり。リリィは歯軋りをしながら、慌てて彼の背中を追いかけた。



 あれから一時間、二時間、三時間……。時間が刻々と過ぎる中、男は淡々と授業を受け続けていた。板書をひたすら書き写し、時折出題される問題を解くことの繰り返し。


「しっかしまぁ、退屈なものね」


 教室の外で、リリィは大きなあくびを一つ。これだけ多くの男女が集まっていれば、多少なりとも異性を意識するタイミングがあるはずだ。しかし彼にはそれがない。というか、まるで他者と関わろうとしていなかった。


「まずいわね……。このままでは、何の収穫も得られないじゃない」


 リリィは少しずつ焦りを募らせる。しかし、好機は突然訪れた。


「それでは、四人グループを作ってください」


 先生の掛け声とともに、生徒たちがざわつき始める。あれよあれよと、四人一組の集団が形成されていく。そんな中、例の男はおろおろと周りを見回すばかり。


「全く、仕方ないわね……」


 リリィはふらっと教室へ立ち入り、彼の元へ近づく。そして透明な手で、彼の背中をそっと押した。


「うわっ……?」


 男は流れるようによろめき、そのまま前方の集団へ飛び込む。そう、まだ三人しか集まっていないグループの元へ……。


「あれ? 上田?」


 図体の大きい、いかにも体育会系な男が、物珍しそうな表情で首を傾げる。


「あっ……その、ごめん!」


 ぺこりと頭を下げ、早急に立ち去ろうとした。しかし……。


「丁度良かった! あと一人足りなかったんだ。上田、一緒に組んでくれないか?」


「えっ……?」


 目線を上げると、体育会系の男が手を差し伸べていた。その後ろで、微笑みを浮かべる女子が二人。


「上田君、確か絵が上手なんだよね? 心強いなー!」


「よろしくね、上田君!」


「あっ、えっと、その……よ、よろしく」


 彼はホッとした様子で小さくお辞儀をする。その姿を、リリィは満足そうに見つめていた。



 それからさらに一時間が過ぎ……。



「どうして!? 彼には、性欲というものがないの!?」


 昼下がりに差し掛かったころ、リリィは教室の外で、人知れず地団駄を踏んでいた。


 ……おかしい。あれだけお膳立てをしたのに。男女二人ずつのグループで、あんなに女子と近い距離で会話して、顔色ひとつ変えないなんて。

 まさか……『ずっとオレのターン』ならぬ『ずっと賢者タイム』!? いやいや、そんなの普通あり得ないでしょ!?


 歯ぎしりをしながら、もう一度男の様子をうかがう。今は授業の合間。周囲の生徒たちが談笑する中、彼はまたしても一人になっていた。机に向かい、黙々と何かを書いている。


「また一人に……って、あれ?」


 リリィはとある異変に気づいた。それは彼女が、今か今かと待ち望んでいた状況。


 男が、顔を赤らめていたのだ。


 どうして……? 一体何があったというの? 彼はただ、ひたすらペンを走らせて……いや、あれは絵を描いているのか?

 とすれば、その絵に秘密があるに違いない。確認しなきゃ! 幸いにも、彼の席は窓際だ。教室の端を辿り、ゆっくりと男の元へ近づく。


 もう少し、もう少しで、彼の手元が見え――。


「上田ー。寒いから、窓閉めてもらってもいい?」


「あ、うん。分かった」


 男は作業を中断し、窓へと手を伸ばす。次の瞬間、ぽよんという効果音が聞こえそうな、何か柔らかいものに触れた。


「ひゃあん!」


「えっ……?」


 センシティブな声に反応し、驚いたように手を引っ込める。彼だけじゃない。教室にいる生徒全員が、声の発生源であるリリィの方向を注視していた。勿論透明なので姿は見えていない。しかし、だからこそ、あたかも視姦されているような錯覚に陥ってしまう。


 リリィの顔が、見る見るうちに熱く火照り始めた。


「くっ――。んんっ――!!」


 触られた胸を押さえ、必死に声を押し殺し……。耐え難い恥ずかしさのあまり、彼女は窓の外へ飛び出してしまった。


「なっ、何? 今の……?」


 男は首を傾げながら、自身の手をまじまじと見つめ続けた。かすかに残る柔らかい感触を、名残惜しむように……。

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