このあとダンジョンに行った。

 昼寝から覚めると、日はすでに傾きかけていた。

 身体はソファの上、二人がけの肘掛けから足首がはみ出している。ベッドに向かう気力もなくて、テレビの前のソファで寝落ちしたのを最後に記憶が途切れていた。昼寝と言うよりもほとんど気絶したようなものだった。たまの休みの日に、朝っぱらから恋人と大喧嘩をしてしまって、言い合いの末に出ていった恋人を見送ったところでその日の体内カロリーが尽きたのだ。

 怒りよりも眠気が勝ってしまったのは、我ながら自分らしいと思う。ぼんやりとしたまま、ローテーブルに放り出されていた携帯端末に手を伸ばした。新着メッセージがモニタにポップアップされていて、アプリを開くとたった一言「もう会いたくない」と残されていた。なるほどね。そのままモニタの電源を落とし、息を吐く。

 無気力なままテレビをつけた。昼のワイドショーの名残りのようなニュース番組がちらほら放映されていて、今年のスギ花粉は例になく少なくなりそうだとか、今週末はよく晴れるだろうとか、そういう平和なニュースばかりが流れていた。

 見るともなくぼんやりと眺めつつ、これからどうしようかと考える。それは恋人と別れる前にもう一度しっかり話をしなくてはならないという問題でもあったし、目下の夕食を何にしようかという問題でもあった。ひとまずは後者が目下の優先事項であろう。何しろ今日はほとんど何も食べていない。腹は減っているはずだしエネルギーも必要だ。そのはずなのだが、エネルギー切れは深刻で、ひとまず動こうという気がまず起きない。

 とりあえずデリバリーだけでも頼むか……そんなことをつらつらと考えていると、不意に携帯端末が震えた。モニタに表示されたのは後輩からのメッセージである。

「すみません、先輩の家に忘れ物しちゃったんで取りに行ってもいいですか」

「おみやげもあります」

 立て続けに送られてきたのはそんな内容で、そういえばあいつ荷物置き忘れてってたな、と思い出す。ほとんど空っぽに近い、藍色のナップザックだ。携帯だけ持って荷物ごと忘れていくとは。

 まあ、渡す手間が省けるし断る理由もない。いいぞ、今日休みだしとかなんとか返信をして、とりあえず軽く片付けでもするかとソファから降りた。



 後輩は15分ほどあとに来た。

 走ってきたらしい。白めの顔と、ぴんととがった笹穂耳の先端がほのかに上気している。やつはどうしてか駅前の百貨店の手提げ袋を両手にいっぱいさげていた。

「早いな。忘れ物より荷物多いんじゃねえか」

「おみやげですよ」

 彼はそう言って、紙袋を目の前に差し出してくる。受け取りながら、部屋の中へと促した。

「これだろ? 忘れてったやつ」

「そうですそうです。いやー、携帯と財布だけ持ったら満足しちゃって。まさか丸ごと忘れるとは」

 彼はのんきにもそう言って、俺から受け取ったナップザックに尻ポケットに突っ込んでいたらしい携帯や財布を放り込んでいた。「これで完璧です」と言うが、やつはその状態の手荷物をレストランに置き忘れたことがある。完璧かどうかはあやしいものであった。

 それは指摘せず、俺はただコーヒーを淹れてやった。そういえばこのコーヒーメーカーは恋人が家に運び込んだものだった。いずれ返すべきだろうが、今はありがたく使わせてもらう。

 コーヒーを淹れてリビングに戻ると、後輩はローテーブルで紙袋をいくつも開けていた。

「デパートの催事場でかんらん洞物産展やってたんですよ。俺のばあちゃんがいた世界のダンジョンなんで、懐かしくていろいろ買っちゃいました」

 かんらん洞とは、旧関東地区の三大ダンジョンに数えられる巨大な迷宮窟の通称である。歴史は古く、未だ全階層が攻略されていないらしい。とはいえそれは深層も深層の話で、中階層までは攻略が容易なために探索者が多く、またダンジョンを通じてやってくる異世界のひとびとでおおいに賑わっているそうだ。

「そうなのか、あのへんは行ったことねえな」

「あれ、先輩そうなんですか? じゃあ今度行ってみましょうよ、休みとかに」

「ええ……たまの休みにダンジョン潜りかよ。元気いっぱいか」

「いいでしょ、たまには。気分転換ってやつです」

 気分転換。妙にタイミングよくそんなことを言うものだから、思わず苦笑した。後輩はそんなこともつゆ知らず、土産物をテーブルに広げていく。どでかい紙袋から出るわ出るわ、見たことのない異世界の生菓子やら肉や魚の加工食品やらできたてと思しき麺料理やら、あっというまにテーブルが埋め尽くされた。

「すげえ買ってきたな」

「せっかくの機会なので、先輩にもいろいろ味わってほしくて。あ、これ良かったら同居人さんに」

 そう言いながら差し出されたのは、パイ生地を使った焼き菓子だった。パイ生地の真ん中に、シロップがけのつややかな果物を巻いて焼き上げられて、色とりどりの花が添えられている。ああ、あいつ好きそうだなあこういうの、と思い、二度目の苦笑を浮かべざるを得ない。

「そういえば今日同居人さんいないんですか? お仕事?」

 苦笑いしていたらとうとう核心をつかれてしまった。まあそうなるよなあ、と思いつつ、どう答えたもんかと考える。種族的な感覚なのか、後輩はものすごく勘が鋭くて多少の隠し事ならさもなく言い当てたりする。

「ああ……今朝ちょっと喧嘩してな。今出かけちまってる」

 たぶんもう戻ってこないというところまでは言わなかった。後輩は目を見開いて「そうなんですか」とつぶやいたあと、表情の読めない顔になってこう言った。

「……もしかして、俺のせいですか?」

 藍色のナップザックが目の前で揺れた。恋人が後輩の忘れ物をひっつかんで、これは誰のだ、どういうことだと俺の目の前に突き出してきたときの光景が、後輩の一言であざやかによみがえったのだ。

 まあね、これは俺が悪い。だって同居人に無断でこいつ泊めたもん。いやだって言うやつはいやだよな。正直にそう言ったんだが、今回は妙に話が拗れたのだ。そうだ。それで、恋人にこんなふうに言われたんだった。

「どうせあのエルフでしょ? あの長耳ちゃん、そんなにんだ。エルフってどうなの? やっぱ締まりとかちょっと違うわけ?」

 こっからもう記憶がねえんだわ。向こうも向こうで口も手も強いもんだから、余計にヒートアップしてしまった。

「……いや? 全然別のことだよ、もうなんで喧嘩したのかも忘れちまった」

 まあ無駄だろうなと思いつつそう返した。後輩の、エメラルドみたいな瞳がまっすぐにこっちを見ている。やはり表情は読めなくて、そうしているうちに不意に彼はにっこり笑った。

「そうですか。ちゃんと謝らなくちゃだめですよ、先輩」

「俺が悪い前提かよ」

「だっていつもそうじゃないですか。こないだうちの前で泊めてくれって土下座してきたときも」

「一刻も早く忘れて」

 俺が言うと、後輩はさも可笑しそうに笑った。俺もつられてへらへらと笑う。そこでようやく、腹が減りすぎていることを思い出したのだった。

「そんなことしてたから朝からほぼなんも食ってねえんだよ。ありがたくいただくわ」

「そうだったんですか。じゃあさっそく食べましょう、ほらこのミミックとテンタクルスのスクランブル焼きとか。これめちゃくちゃ美味しいんですよ!」

「ミ……何?」

「ちょっと温め直しますね、電子レンジお借りします」

「それ、レンジ食べるやつじゃないよね?」

 大丈夫ですよもう焼いてあるんですから、とやや不穏なことを言って、後輩は不自然に揺れ動いている紙パックを持っていそいそと台所に入っていく。

 その後姿を眺めながら、ふと思いついたように言った。

「来週の休み、ダンジョンにでも行くか」

 どうせ恋人は戻ってこないだろうし、戻ってきたとしてももういいだろう。

 ぱっとこちらを振り返って顔を輝かせた後輩を見て、なぜかこうなることがわかっていた気分になった。

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