第8話「歩く男」

記憶操作が終わった。2日間の記憶を消し、疑似記憶に書き換えただけ。2分もかからなかった。

レーザーの網をほどく。倒れ込む女の子をキャッチし、ソファに寝かせた。

舌切りに侵入されていた男にも、さっき記憶操作を行い、ハッカーに仕掛けられていた人格スリープも解いた。ことが終わった客と風俗嬢。あとは帰るだけだ。

おれは自分のこめかみに向け、マーカーのレーザーを照射した。レーザーの網に包まれる。

現実世界に戻るには、ダイバー本人にしかわからないイメージ·キーが必要だ。おれはそれを思い浮かべた。優しい音色が頭の中に流れた。


黒に近いくらいに変色した木の小さな箱。箱から金色のクランクハンドルがはみ出している。箱の蓋を開けると、中のシリンダーをピンが弾き、優しい音色を奏でる。

小さなオルゴール。

おれのイメージ·キーだ。

箱の蓋を閉めた。音が途切れる。それをコートの内ポケットにしまった。

黒い革コート。これしか持ってない。これだけで充分だ。

杖をついて歩く。

杖が無いと歩けない。

歩行補助装置なんて、クソ喰らえだ。あんなもの使えば、棺桶に入るのが早まるだけだ。

呼吸が辛い。

呼吸音がうるさい。まるで、ダース・ベイダーだ。ウイルスで肺をやられた。生命維持装置が無いと生きられない。

長い廊下を歩く。

高層ビル内の大きな窓。外は同じような高さの建物ばかり。

窓に映る老人。

白髪に呼吸マスクを付け、杖をついた年老いた男が恨めしそうな顔をしている。

S級ダイバー403·0965の現実の姿だ。

2050年、突如発災した新型ウイルスによって、人類は1/3の人口を失った。

そして、トール·エレクトロニクス社により開発された仮想現実世界へ、人類の一部は移住を開始した。

年老いた、世界の金持ちたちがそれに飛び付いた。

安全な世界で、若い体に生まれ変わり、人生をやり直す。自我のキャラクターを電子化し、希望のシチュエーションで人生をやり直す。さっきまで潜っていた2020年代も人気がある。パンデミックを起こしたコロナウイルスが収まり、人類が浮かれていた時代だ。

おれがダイバーをやっているのは、仮想現実世界に移住する金を稼ぐためだ。

安全な平和な世界。

健康で若い体。

欲しい。

こんなクソみたいな現実から抜け出したい。

あと少しで、金が貯まる。

生まれ変わるために、おれは仮想現実の世界へダイブする。

あと少し、あと少しなんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る