番外編2話 ここほれ
「あー……死ぬかと思った」
俺は一体何をやっているのだろう。まさか自分がその辺の平民の子一人の為に、命を掛けて川に飛び込むとは思わなかった。
……いや別に、命を掛けて飛び込んだわけじゃないな。まさかこんなに大変だとは思わなかったから。最初からこれほど大変だと知っていたら、助けに向かったかどうか分からない。
どうせ服はびしょ濡れなので、汚れるのも厭わず地面に寝っ転がって目をつぶる。
きっと今着ている服は、潰れた草の汁と泥でグチャグチャになって、使い物にならなくなるだろう。
エドが近くで、子どもに呼びかけている声が聞こえる。
「君大丈夫か!? 自分の名前言えるか!?」
「……あ……僕……」
どうやら子どもも意識はあるらしい。
全身が怠くて、起き上がれる気がしない。護衛のエドとフリンがいてくれて助かった。おかげで彼らに子どもは任せて、俺は寝転がっていられる。
「おい、お前は平気なのか」
脱力して寝っ転がる俺に、上司が一応といったように声を掛けてきた。
まさか「大丈夫」と言ったら、すぐに働けと言われるんじゃないだろうなと一瞬頭をよぎったが、薄目を開けると少し心細げに眉を寄せるアイリーンと目が合い、考えを改める。
どうやら氷の魔女は、飼い犬の心配をしてくれているらしい。
「大丈夫ですよ。全身がものすごく疲れているだけで、水もほとんど飲んでませんから」
「そうか」
俺がそう言うと、氷の魔女は強張った表情を少しほころばせ、ホッと息を吐いたのだった。
*****
アイリーンが俺と子供のずぶ濡れの衣服を水分を飛ばして乾かしてくれ、子どもを馬車で家まで送ることになった。
特に大きな怪我もなく体調に問題もなさそうだが、溺れたばかりで弱っている子供に一人で歩いて帰れと言うほど、氷の魔女は冷たくないのだ。実は。世間のイメージとは違って。
子どもの名前はリックといって、王都を取り囲む城壁の外にある、少し離れた場所の村に住んでいるらしい。
七、八歳くらいだろうか。細っこくて、まだまだ母親に甘えている時期のはずの、小さな男の子だった。
川には水を汲みにきたが、バケツを川に入れたところで、予想外の強い流れに体ごと持っていかれてしまったのだそうだ。
「そんなに小さいのに、一人で水を汲みにきたのか? 今度から、大人に代わってもらうか、大人に付いて来てもらうかしたらどうだ」
村へと向かう馬車の中で俺がそう言うと、リックは思わずといったふうにフッと笑った。
バカにして笑ったんじゃない。思わず笑ってしまったという感じ。
「大人には別に、危険だったり大変な仕事が山ほどあるんだ。水を汲むのは子どもの仕事だよ」
「……そうなのか」
「そう」
「ふーん」
貴族ではないが上流階級育ちの俺にとっては信じられないことだが、リックにとってはそれが普通なのだろう。
生きるための役割を既に立派に担っている彼は、年齢よりもどこか大人びて見えた。
*****
リックの案内通りに進んでいくと、ほどなく村に到着した。
プロの職人ではなくて、素人が手作りで建てたような小屋が集まったこじんまりとした村だ。
馬車だからすぐに着いたが、歩きだと結構な時間がかかる距離だろう。
リックによれば、この村の子ども達は、一日に川まで何往復もして水を汲んでいるのだそうだ。
「ありがとうございました」
「ああ、元気でなリック……って、アイリーン、何しているんですか」
そう言って馬車に乗ったまま見送ろうとしたら、アイリーンがリックと一緒に、スルリと馬車から降りてしまった。
「初めて来た村だからな。せっかくだから様子をみてくる」
またいつもの気まぐれ我儘か。
リックについてスタスタと歩いていくアイリーンに、一人だけで行かすわけにはいかないと、慌てて馬車を降りて追いかける。
エドとフリンの護衛二人も、アイリーンのその行動は予想外だったらしく、慌ただしく馬車を降りるのが見えた。
アイリーンは村を歩きながら、顔をキョロキョロと動かして、まるで何かを探しているようだった。
時折立ち止まったり、興味をひかれた方へ、少し周り道をしたりして、なかなかリックの家まで辿りつかない。
その様子に少々違和感を覚える。特に珍しい植物や鉱物があるわけでもない、なんの変哲もない村だ。何をそれほど観察する必要があるのだろうか。
そんな風に村をウロウロし、立ち止まっては観察しているうちに、次第に村の人たちが家から出てきて、俺たちのことを不審そうに遠巻きに見てくるようになった。
そりゃあそうだろう。村人たちにとって、今の俺たちは完全に不審な動きをする侵入者だ。
「おい! お前らうちの村に何の用だ!? リックに何をする!!」
村人たちの中で屈強そうな男が代表して、ついに声を掛けてくる。
「ドンソンさん! この人たちは怪しい人たちじゃないんだ。僕が川で溺れているところを助けてくれて、家まで送ってくれているところで……」
「じゃあなんで村の中をそんなふうにウロウロ歩き回っているんだ。何を企んでいる!」
「それは……」
リックが庇ってくれようとしたが、ドンソンさんとやらの質問に答えられず、困ったように俺のことを見上げてきた。
「いや、俺を見られても困る。俺もなんでこんな風にウロウロしているんだか分からない」
「えー……」
俺たちと、村人たちの視線は、自然とローブを着た魔女に集まった。
「なあ、あのローブに、冷酷そうな顔、氷のような目。あいつ『氷の魔女』ってやつじゃないか」
「氷の魔女!? 氷のような冷たい性格で、いつも怪しい実験をしているという……」
「おいおい、俺たちの村で何をしようっていうんだ。……まさか、王都ではできないような、人体じっけ……」
――いやいやいやいや。さすがにそれはない。確かにアイリーンはいつも研究棟に籠って実験ばっかりやっているけど。人体実験なんてしない……いや必要だったらするかもだが!
ダメだ。我が上司ながら怪しすぎて、村人を安心させられるような言葉が思いつかない。もうアイリーンの気が済んだら、エドとフリンに守ってもらいながら、さっさと帰ってしまおう。
こうやって、氷の魔女の恐ろしい噂が広まっていくのか。自業自得かもしれない。
「うん、ここだな」
そんな俺たちの騒ぎを知ってか知らずか、注目の的である氷の魔女ことアイリーンが、村の中心当たりの道の真ん中で、呑気な声をあげた。
「……なにが『ここ』なんですか」
「井戸だよ。村の家の並び的にも、水脈的にも、ここがベストだ」
「……井戸!? そうか」
逆になぜ今まで気が付かなかったのだろう。村の中をウロウロしたり、立ち止まって何かを探したりしたのは、地面の奥深くにある水脈の流れを探っていたせいだったのか。
「おい犬。ここを少し掘れ」
「急に掘れと言われましても。……リック。何か道具を貸してくれないか」
「あ、うん」
「これ使いな!」
リックがどこかへと走り出そうとしたら、近くの家から誰かがシャベルを持ちだしてきた。『井戸』という言葉が聞こえていたようで、先ほどまでとは違い、村人たちはどこか期待するような表情で、俺たちの行動を見守っている。
言われた場所を、シャベルで掘り始めると、ほんの3回くらい掘ったところですぐに上司から「もういい」と止められた。そういえば川に入ったせいでものすごく疲れていたので、すぐに止めてくれて助かった。ホッとしながらシャベルを村人に返す。
その小さな穴――ちょっとした窪みに向かってアイリーンがなにかを呟くと、あっという間に水が湧き出てくる。
「ここを井戸にしたいなら、続きはお前たちで勝手に掘るんだな。井戸がいらないなら、今は魔力で汲み上げているだけだから、放っておけばすぐに水は引く。それじゃあな、邪魔をした」
村人たちの顔を見渡しながらそれだけを言うと、アイリーンは返事も聞かずに、もう馬車の方へスタスタと歩き出してしまった。
今度は俺もそうなるだろうと予想していたので、慌てず上司についていくことができた。
「勝手に掘れって……せっかく良いことしているんだから、もう少し言い方を考えたらどうですか、アイリーン」
そうしたらもっと、感謝されるだろうに。氷のように冷たいだとか、そんな評判もなくなるだろうに、もったいないなと思った。
「頼まれたわけでもないし、余計なお世話かもしれない。穴を掘るのなんて面倒で、毎日川に子どもを水くみに行かせたほうが、楽かもしれないだろう」
「まさかそんな。井戸を掘った方が良いに決まっているでしょう」
「どうだかな」
そんな会話をしながらも、まあ世の中には不思議なことに、川まで水を汲みに行き続けることを選ぶ人がいることも確かだな、などと考えていた。
「ありがとうございましたーーー!!」
そんなことを考えていたら、背後から誰かに大きな声でお礼を叫ぶのが聞こえた。
驚いて振り返る。
リックが両親らしき人に、抱きしめられながら手を振っている。
「リックのことを助けていただいて、ありがとうございます!! 井戸も助かります! 必ず私たちで掘ります!!」
「助かるよ!! ありがとう。怪しんでごめんなー!!」
「ありがとう氷の魔女―――!!」
リックの両親だけじゃない。村人たちも一緒になって、大声で口々にお礼を叫んでいる。
「おじさんもー!! 僕のこと助けてくれて、ありがとうー!! 魔女のお姉さん、冷たいなんて噂、全然嘘だね!! とっても親切にしてくれて、ありがとう!!」
叫ぶリックに、片手を上げて応える。
「よかったですね。この村の人たちは、井戸を掘るみたいですよ」
「……ふん。別にどちらでも私は構わない」
そう言う上司の表情は、いつものぶかぶかローブに隠れて見えなかったけれど。声はどこか嬉しそうな響きを含んでいたのだった。
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