第5話 ジャックとオリーブ亭

 シャッ  シャッ  シャッ  シャッ



 次に目を開けた時、またしばらく宿の天井を見上げて、そうしてまた目を閉じようとしたけれど、先ほどからずっと何かの音が鳴っていたことに気が付いた。


――この音はなんだろう。

 なんだか聞いていると、安心する。


 鳴っている事にしばらく気が付かなかったくらい、世界に馴染んでいる。鳴るのが自然と思える音だった。


 この音の出どころが気になって、ゆっくりと体を起こす。


 体が動く。大分スッキリしている。

 多分おばあの癒しの力のおかげだ。


 考えてみれば、こんなにもゆっくりと休んだのは、本当に久しぶりだった。

 王都にきてから3年間、働きづめだったから。



 旅のために用意したトランクケースを開けて、着替えを取り出す。

 汗で張り付いた服を脱ぎ、ベッドのわきに置いていてくれていた布に、水差しの水をふくませて、体を良く拭くと、着替えにそでを通した。




 窓を開ける。

 空気が冷たい。まだ早朝みたいだ。

 音は外からしている。



 私は部屋から出ると、静かに階段を降りて、ドアを開け、この宿屋にきてから初めて外に出た。



 出ると同時に、綺麗な空気が体を纏ってくる。

 ここは本当に、気持ちが良い場所だ。



 外に出るのが何日ぶりなのか、自分では分からない。

 後でアレフさんかおばあに聞いてみよう。



 宿の扉には、小さな木の看板に『ジャックとオリーブ亭』と書かれている。

 何日も泊まらせてもらっていたのに、今初めて宿の名前を知った。


「おや、おはよう。大分顔色が良くなったね」

「おはようございます」


 音の正体は、おばあが宿の前の道を、箒で掃く音だった。

 誰も起きていないような、こんなに朝早い時間から掃除していたのか。

 だからあんなに、宿の前は気持ちの良い空気に満たされていたんだと思った。



「朝早いですね。こんなに早くからお掃除をされているなんて、すごい。」

「あらありがとう。でも年寄りはどうしたって早起きをしてしまうものだし、これは私の楽しみなのよ」

「楽しみ?」



 掃除が楽しみって、なんでだろう。

 故郷にいる時は、家のことはメイドのハンナさんがやってくれていたし、私は聖女の仕事くらいしかやったことがないので、掃除が楽しいという気持ちが分からなかった。


「そう。早起きしてね、朝一番の気持ちの良い空気を吸いながら体を動かして、段々綺麗になっていくのを見ると、楽しいでしょう。そうしているうちに段々太陽が昇って、明るくなっていくのも素敵だし」

「……本当だ」


 話しているうちにも、徐々に朝陽が昇って、あたりが明るくなっていく。

 昼間の光とちょっと違った色で、おばあが言う通り、とても気持ちが良い。

 気が付けば、体中が聖なる力で満たされていた。


 森や川の少ない王都でも、こんなにも力が満ちているものがあるなんて、今まで知らなかった。


「それにね、こうして宿の前でお掃除をしていると、あなたみたいに話しかけてくれる人もいるの。それも楽しみのうちの一つ」

「こんなに朝早くに?」

「そう」



 言っているそばから、通りの3軒むこうのドアが開き、誰かが外に出てきた。

 父親と子供の親子連れのようだ。


「おはよう、おばあ。そちらはお客さんかい? いってきます」

「はい、いってらっしゃい。今日はマテオ君も一緒に行くのかい。お仕事頑張ってね」

「ああ、仕事を教えながら手伝わせようと思ってね」

「おばあ、行ってきます! そっちの可愛いお姉さんも」

「い……いってらっしゃいませ」


 どうやらこんな早朝から、仕事へ出かける人がいるらしい。

 男の子は初めて会うのに元気に挨拶してくれたし、父親はわざわざ被っていた帽子を一瞬脱いで、私にも会釈をしてくれた。

 慌てて会釈を返す。


 それだけのことで気持ちが明るくなる。




 シレジア子爵家では、いつも誰もが不機嫌で、ピリピリとした緊張感があった。

 それを一人で屋敷中の空気を、綺麗に気持ちよくするように必死に毎日聖なる力を注ぎ、頑張っていた。

 お仕事だから、それが当然だと。頑張らないと、ガマンしないとって思いながら、ただただ必死に、仕事をこなしていた。


 でもこの町は逆に、私に力を分け与えてくれるようだ。





 ――私は間違っていた。

 ただ王都に憧れて、故郷から出てきて。

 人の目も見ないで、人と話もしないで、本当に流れ作業のように、回復させていた。

 それが聖女の仕事だと思っていた。


 おばあの聖なる力は、私の100分の1にも満たないだろう。

 でも自分で自分に回復をかけるよりも、おばあの力のほうが確実に、私の心も体も癒してくれている。



「ねえ、おばあ。私も掃除のお手伝いをさせてもらってもいい?」

「もちろんさ。ありがとうね」




シャッ  シャッ  シャッ  シャッ




 おばあから箒を借りた私は、宿の前の土埃や枯れ葉を、丁寧には掃き始めた。

 無心で砂埃を集める。



「本当だ。とても楽しい」

「そうでしょう」


 宿の前の道が綺麗になるにつれて、私の身体の中に溜まっていた汚い物も、なくなっているような気がした。





*****





 聞けば私が退職してから、既に1週間以上が経過していた。

 キャンセル待ちしていた馬車すらも、既に出発した後とのことだ。

 幸いな事に、手付金は返金されるとのことで、アレフさんが受け取ってきてくれた。


 アレフさんは、まだなぜか一緒に宿に泊まってくれていた。



 また馬車を逃してまだ故郷へ帰れなかった私は頼み込んで、宿でお手伝いの仕事をさせてもらうことになった。

 聖女の仕事以外なんにもやったことがなかったけれど、おばあに色んな事を教えてもらって、楽しく働いている。


「ニーナちゃん、これ運んで」

「はい! ベルさん」



 宿屋の女将はおばあではなく、おばあのお孫さんの、ベルさんという女性だった。

 元々この宿屋はおばあが女将だったけれど、ベルさんの両親である息子さん夫婦に譲ったらしい。


 だけど息子さん夫婦は流行り病にかかり、まだ子供だったベルさんを残して亡くなってしまった。

 それ以来、おばあとベルさんの2人で、この宿屋を続けているとのことだった。



「助かるよ、ありがとうね。ニーナちゃんがいなかったら、料理を運ぶ人がいないから、お客さんに自分でとりにきてもらっていたのよ。良かったわねーあんたたち」

「おう。おばあに運ばせるわけにはいかねーからな。ニーナちゃんありがとう!」

「ありがとなー!」

「ニーナちゃんが可愛いせいか、なんか最近体調良いんだよな」

「俺も俺も!」



 ベルさんも、お客さんたちも、そう言って喜んで、お礼を言ってくれる。

 その様子を、食堂の隅に座ったおばあと猫ちゃんが、ニコニコと見守ってくれていた。


 働いて、お礼を言われて、喜んでもらえる事が嬉しい。


 かつての私は、きっと何も考えていなかった。

 ただ聖女の力があるから、聖女になろうとしただけ。

 王都から来たお姫様が素敵なドレスを着ているのを見て、ただただ憧れて王都にきたかっただけだった。




 下町の人たちとも、大分仲良くなってきた。

 この宿屋に泊れてよかった。おかげで大切なことに気が付けたような気がする。



 だけど誰にも……おばあにすら、私は自分が聖女であることを、まだ言う事ができていない。

 アレフさんにも口止めをして、内緒にしてもらっている。


 聖女だとバレたらまた皆から、回復するように言われて、うまくいかなかったら怒られてしまうかもしれない。

 ……そんなことにはならないって、信じているけれど。



 ただのニーナとして、私は宿で働いて、そんなただのニーナを、皆は受け入れてくれた。

 もう少しこのまま、ただのニーナとしての生活を楽しみたかった。




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