第1章 下町の宿屋

第4話 下町の宿屋

 次の日の朝、私はまだ王都にいた。

 見慣れない宿の一室で、天井の木目をただ茫然と見上げる。




 昨日アレフさんと待合室で話しながら、私は気を失ってしまったらしい。


 目が覚めた時には既に、乗る予定だった馬車は出発した後で、私は王都に取り残され、故郷に帰りそびれてしまったのだ。



 女性が一人でも安全に旅できるような乗合馬車は数が少なく、次の出発はちょうど一週間後だ。

 しかも既に予約でいっぱいだったので、一応キャンセルが出たら連絡をしてもらうように、手付金だけ払っておいた。



 アレフさんの提案で、急遽故郷へと手紙を送った。

 『乗合馬車に乗れなかったので、予定の日には帰れません』と。



 乗合馬車乗り場には数多くの荷馬車も停まっていた。

 ドレスディア行の荷馬車に、急いで書いた実家宛の手紙を託したのだ。


 私の実家は、領主様のお屋敷の敷地の中にある。

 ちょうど領主様のお屋敷宛の荷物があったので、きっと一緒に届けてもらえるだろう。





 アレフさんは、自分が乗る予定だった馬車を見送ってまで、私の意識が戻るまで付き添ってくれていたらしい。

 お詫びに、アレフさんが乗れなかった馬車の乗車賃を払うと申し出たけれど、アレフさんは元から護衛として馬車に乗る予定だったので、乗車賃は無料の予定だったと言って断られてしまった。

 なんでも、兵士の経歴があるような旅人は、半分護衛として無料で乗合馬車に乗れるものらしい。


 馬車に置いていかれ、困り果ててなんの気力もわかない私を、アレフさんは知り合いがやっているという宿屋に連れていってくれた。

 王都を周回する辻馬車に乗って、王都の中心から離れる。

 15分ほど西の方へ行ったところで降りて、更にそこから細道に入って徒歩で何分か歩いた場所に、その宿屋はあった。

 道は細くて、雑多としていたが、なんだか暖かい雰囲気の通りだった。

 最初は、こんなに王都の中心から離れたところに、本当に宿屋なんてあるのかと疑ったくらいだけど、寂れるどころか活気に満ち溢れた良い町だった。

 清浄な空気が、滞ることなく循環している。



 綺麗に掃除が行き届いた気持ちの良い宿の扉をアレフさんが開けると、そこは食堂のようになっていた。


 宿屋は大体、1階が食堂で、2階が客が泊まるための部屋になっている。


 食堂にはただ一人、小さなおばあちゃんが座って、編み物をしていた。

 その足元には幸せそうに眠る猫。


 その時すでに夕方で、食堂の奥のキッチンでは、誰かが夕食の仕込みをしている気配があった。

 



「おや、アレフかい。そちらのお嬢さんは? ついに嫁さん紹介しにきてくれたのかい」


 髪の毛が完全に白髪になっていて、顔の皺の様子からも大分お年を召しているように見えたおばあちゃんは、予想外に張りのある力強い声をしていた。

 疲れ切った私よりも、よほどお元気そうだ。


「おばあ、冗談はよしてくれ。ニーナさんに失礼だ。……今日2部屋空いているか?」

「ああ、あるよ。ちょうど2部屋空いている。相変わらずラッキーな男だね。食事はつけるかい?」

「頼む。とりあえず、今日の夕飯と明日の朝食。……その後は、また考える」

「はいよ」



 おばあちゃんは、宿屋の受付でもあるようだった。



 

 その日の夕飯なんて、殆ど食べられなかった。

 なんとか1口か2口だけスープを口に含むと、用意してくれた部屋のベッドで、また再び気絶するように眠った。

 次に目が覚めた時にはもう昼で、朝食に用意されていた食事を無理やり昼食として食べ、また自室のベッドに寝転がった。






 そしてその宿屋の一室に、今私はいるというわけだ。



 ボーッと天井を眺め続ける。

 無意味に木のウロや、木目のカーブを目で追う。



 今の私は、きっと誰かが傍から見れば、くつろいでいるように見えるだろう。

 だけど内心では、昨日聞いた、ショックな出来事がグルグルと体中を渦巻いていた。




 私のなにがいけなかったんだろう。

 どうしてクロリスは、私を陥れたんだろう。

 シレジア子爵様が好きだったから?

 私が、2人の仲を邪魔していたの?

 シレジア子爵様も、私のことを、ずっと邪魔だと思っていたの?




 あれからずっと考え続けてしまう。

 兵たちはかなり前から私に冷たかったし、クロリスは裏で私にイジめられているとウソをついていたという。


 シレジア子爵様だけは、優しいお人だったと思いたかったけれど、どうしても疑う気持ちが消えない。

 故郷に帰る私を見送りに来て、見せつけるようにクロリスを抱き寄せた姿が、頭から消えないように。


 そうやって疑ってしまう自分が嫌で、また自己嫌悪に陥る悪循環だ。



 それに、こんなふうに何もしないで寝転がっていたら、また仕事をサボっていると思われて、今にも怒声がとんできそうな気がして、罪悪感に苛まれて、ドキドキしてしまう。



 もう仕事は辞めたというのに。



 何も考えずに安心しきって眠れていた頃に戻りたい。



 疲れからか、ショックからか分からないけれど、体がだるくて頭はジンジンと痛む。


 私は目をつぶって、再び眠りの世界に逃げ込んだ。



*****



 次に目が覚めた時、体のだるさと頭痛は、良くなるどころか酷くなっていた。


 頭を動かすと、額の上からなにかが落ちる。

 濡らした布だった。



「おや、目が覚めたかい。良かった。なかなか目を覚まさないから、聖者様を呼ばなきゃいけないかと、アレフが心配していたよ」



 声がした方向を見ると、ベッドの脇に椅子を置いて、宿屋のおばあちゃんがいた。

 私のことを、看ていてくれたのかもしれない。

 足元には初日に見た猫ちゃんがいて、お尻をおばあちゃんの足の上に乗せて幸せそうに眼を閉じている。


 

――この人は、安心なのね。



 猫が懐いているからといって、良い人かどうかなんて本当のところは分からない。

 でもなんとなく、この人は信じられる気がする。


 頭がマヒしたみたいで判断力がない私は、猫ちゃんの判断を信じることにした。



「まだ熱が高いね。無理しなさんなね。あんたはもう4日も寝続けていたんだよ。たまーにうつらうつら、目を開いていたけど。覚えているかい?」


「おー……」

 ――覚えていません。



 返事をしたいのに、喉が掠れて声にならない。


「水をお飲み。疲れていたんだね。何日でもいていいから。ゆっくりゆっくり休むんだよ」



 おばあちゃんはそう言って、ゆっくりとコップを傾けて、水を少しずつ口に含ませてくれた。

 


 ――ほんの少し、聖なる力が宿っている。



 おばあちゃんが、私に回復魔法をかけてくれている事に気が付いた。

 聖者までいかなくても、聖なる力を扱える人は、たまにいる。


 力を使っている自覚があるのかないのか分からないけれど、おばあちゃんが私のことを癒そうと思ってくれている事は分かった。



 ――冷たくて、美味しい。



 口の中に入ってきた水が、体の中に染みわたって、少しずつ、少しずつ怠さを取り払ってくれる気がした。



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