女の企み

――何も起こらなかった。



「ふ」

 牛車の内から、女が笑う声が聞こえる。

「そんなことは、私だって試した」



 じかに歌を聞かせなければ、鬼を静めることはできないのだ。



「総てを知る鬼だと、親王みこ様からうかがってな」



 親王みこ――惟喬親王これたかのみこ



「独りで、歌を考えているふりをして、詠んで、東宮とうぐうに行ってみても、鬼の気配は消えやしない」

「また男に言い寄ろうと、歌をうめいていると、周りには思われているでしょうね」

 女に、友則が言って、望行は袖で口覆いして、笑いをこらえた。



 女の正身しょうじみが、わからない。

 俺はすべてを知る鬼なのに。




惟喬親王(これたかのみこ)

 文徳天皇もんとくてんのうの親王

 母は紀静子きのしずこ


東宮(とうぐう)

 皇太子の御殿ごてん


歌をうめ

 歌を一生懸命、考えて、ぶつぶつ言っている


正身(しょうじみ)

 正体




「吾も歌を読んでいたのだがな」

空言そらごとを。」

 友則が言うなり、女は嘲った。




空言(そらごと)

 うそ




「日記の歌を読んでいらっしゃったのは、そのためだったのですか」

 貫之は驚く。


「それを言うなぁ~」

 振り返る友則に睨まれて、貫之は、どうして言っていけないのか、わかってない。


「ほほほほほ」

 女が一際ひときわ、声を高くしてあざける。

「歌をのは、まことだったのだな。空言呼ばわりして、すまなかった」


「少しも謝っていないではないか」

 友則は、とざした戸に向かって、わめく。



 日記の歌。


 友則たちがいた母屋もやひさしに、広げられた巻紙まきがみに、歌が書き写され、何冊も日記が重ねて置かれている。

 紀有朋きのありともの日記だ。

田舎渡いなかわたらいをしているあいだに、書いた日記で、歌も書かれている。





母屋(もや)

 やしきの中央の建物


廂(ひさし)

 建物の中で、外に最も近い部屋


田舎渡らい(いなか・わたらい)

 地方勤務



「さて、たわぶごとは、このくらいにして、」

 女の声は笑み声のまま、言った。

「やはり戯れ言を言いに来たのではないか~」

 友則は、はちぶく。




戯れ言(たわぶれごと)

 冗談


はちぶく

 ぶつぶつ、文句を言う



紀望行きのもちゆき。娘を内侍ないしし出す」

 女が言った。




内侍ないし

 帝につかえる女官にょかん


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