瞳に戻る光
紳士が放った言葉にリリアンナはグッと両手を握った。それでもなんとか下を向くのはこらえる。ここで負けてはいけない。
何か言わなければ、と思うも言葉が来ない。と、そこでリリアンナの斜め右に立つ、アルフォンスがさらに一歩リリアンナの側による。彼は何も言わないが、ただ一瞬ニコリ、と微笑みかけた。
そうよね、私には味方がいるわ
こういう時、アルフォンスはリリアンナの職分に手を出さない。暴力に訴えられれば流石に手を貸してくれるが、そうでなければ何も言わず、ただ見守ってくれる。それは彼女が街に出てからずっとそうだった。
見慣れた微笑みに勇気を得て、再度紳士を見据える。その視線にもうゆらぎはなかった。
「両親のことは関係ないわ。私は魔法屋として仕事をするだけよ」
「なるほど。では私もまた仕事をするだけだ。私の魔法もまた依頼者がいてね。それでも解きたいなら解いてみるが良い! まぁもっとも本人が嫌がるだろうがな、そうでしょう? ノーテリア嬢」
そう言って紳士は先程までとは打って変わった穏やかな笑みを静かに開いたドアのほうへ向ける。流石に応接室の騒ぎに気づいたのだろう。そこにいたのは侍女とアンに伴われたエラだった。
「エラ! 彼の話を聞いただろう、君は魔法で操られているんだ」
「あらパーシー? どうしたの」
その穏やかな声音にもう一方のドアを開け放ちつつ叫んだパーシーは固まる。その表情は絶望に染まっていた。
「やはりあなたでしたかハーシェル殿。わざわざ教えて差し上げなくとも、ノーテリア嬢はご存知ですよ。魔法のこと。これから魔法を使って殿下の心を手に入れられるのですよね」
「ええ……そうですわね。レーティア卿」
目の前の紳士はレーティアというらしい。そんな家名あっただろうか、と訝しみつつ、リリアンナはそれ以上の問題に直面していた。
思っている以上に魔法がよく効いてる。それに本人も納得ずくなんて……
彼女が使うつもりの魔法ははしばみいろの魔法。治癒の魔法の一種だが、身体ではなく、心の不調を取り除くものだ。とは言え、約束で認められているのはごく些細な力。それ以上は身体を治癒する魔法と同じく、罰が待っていた。
「ノーテリア嬢。始めまして、しょうびいろの魔法屋リリアンナと申します。恐れながらあなたの状態はとても危険です。魔法に操られた状態が長く続けば心身に影響が及ぶ。それに人の恋心を得る魔法など、危険極まりないことは、ノーテリア嬢でしたらご存知でしょう」
人の心を変える魔法の代償は自分の心。最悪自我がなくなってしまうことすらある。その罰の矛先は魔法使い自身だけとは限らない。それはブリーズベルの国民であれば一般常識だ。
「えぇ、知ってるわ。でも良いの。それで妃の地位が手に入るのならば」
「……こうおっしゃっていますけど。魔法屋さん?」
その声にリリアンナは押し黙った。
「妃の地位って、そんなことをして手に入れた地位になんの意味があるんだ。それに殿下の心だってすぐに離れるだろう。それともずっと魔法をかけ続けるのか?」
「パーシーには関係ないわ。レーティア卿はいくらでも魔法をかけてくれるっておっしゃってるもの。それに殿下はもともと私のことを気にかけてくださってるわ。この前の園遊会で笑いかけてくださったもの」
それが、始まりだったか。リリアンナは奥歯を噛みしめる。セオドア殿下はわりと愛想の良い方だ。特にこの夏は積極的に交友関係を広げていた。
おそらく、恋人とやや疎遠になり、寂しいところで殿下に微笑まれ、心が揺れたところをレーティアに狙われたのだろう。一度魔法がかかれば、自己暗示で思い込みはますます強くなる。そしてさらに深く魔法がかかる悪循環になったのは予想できた。
「リリアンナさん。彼女にかけられた魔法を解くことは出来ないのですか?」
「……ごめんなさい。せめてもう少しノーティア嬢の暗示が解けないと。約束の範囲内の魔法では抗えません」
その言葉にパーシーは表情を曇らせ、下を向く。そんなことも出来ないのか、とは言わないが、心では思っていることはリリアンナにも容易に想像出来た。
と、そこでパーシーがグッと顔を上げると、エラの方へと歩き出す。随分近い距離まで近づ気、エラは不思議そうに顔を傾げたが、逃げはしなかった。
「分かったエラ。僕も協力する。我が家は歴史ある伯爵家だ、ガードナー程ではないけど、王家とのつながりもある。あらゆるコネを使ってエラが見初められるよう手助けしよう。だからこんな怪しい魔法に頼るのはやめてくれ」
「助けるって……どうして? あなたにはなんの理もないことよ。レーティア卿は陛下とつながりの深い貴族は重用しないっておっしゃっていたし……」
ハーシェル家はそこまで影響力はないが、どちらかと言えば現国王側の家だ。なので自分が妃になっても益はない。そう話すエラにパーシーは静かに首を振った。
「ハーシェル家はこの際関係ない。あなたが殿下の心を手に入れたいなら、それを助けたい。ただそれだけだ」
「どうして? そこまでしてくれるの」
本当に分からない、という表情でまた首を傾げるエラ。しかしその瞳にほんの少しだけ意志の光が灯る。そこに一筋の可能性を見つけ、リリアンナはそっと手帳を取り出した。
「エラを愛しているから。幸せにしたいからに決まっているじゃないか」
その言葉にエラが目を見開く。パーシーはさらに距離を詰め、畳み掛けた
「エラが殿下のことが好きで、殿下のお側にいたいなら、それを応援する。だから人を不幸にする魔法にすがるのだけはやめてくれ! エラはそんな女性じゃないはずだ」
懇願するような声。その声にエラのこれまでずっとフワフワと宙をさまよっていた視線がしっかりとパーシーと交差する。
とその瞬間を見逃さず、リリアンナが手帳を開いた。
「はしばみいろの魔法を!」
リリアンナの手元から黄色みがかった緑色の淡い光が飛び出し、天井に跳ね返ってエラに向かう。それは随分と弱々しい光だが、それでも眩しくはあったらしくエラは思わず目を瞑る。
そしてその光が消えると、何が怒ったのか分からない、とでも言う風にパチリ、と瞬きを繰り返した。
「あら、パーシー。どうしたの泣きそうな顔をして。お仕事は大丈夫なの?」
「エラ! 戻ったのかい」
「本当にどうしたの? パーシーったら」
思わず感極まったように彼女を抱きしめるパーシー。エラは随分と困惑した顔だが、しかし押し返すこともせず、彼の背中に手を回した。
「ふふふ、上手くいって良かったわ。って待ちなさい!」
にびいろの魔法が治療されたの見たレーティア卿。もう一度魔法をかけ直されたしないか、万一そんなことをするようなら、手帳を奪ってやろう、と思っていたリリアンナだが、意外とレーティア卿はあんがいすんなりと諦めて、店の外へ早足で向かう。
慌てて追いかけようとするリリアンナ。しかし
「リリ! やめておけ。ノーティア嬢が正気に戻ったんだからとりあえず一件落着だ」
怪しげな男を追いかけるなど、危険すぎる、とアルフォンスに阻まれる。そうこうしている間にレーティアは店の前に止められていた馬車にさっと飛び乗った。
「ってアル。あれを見て!」
「ん? ウェルテリア公の紋章か! つまりレーティア卿は……」
「ウェルテリア一派だったってことね……」
リリアンナは馬車が走り去った方を見ながら苦苦しくつぶやいた。
「相変わらずたまにしか帰ってこない、と思えば、またややこしいことに巻き込まれたな、この娘は」
「私だって好きで巻き込まれた訳じゃありませんわ、お父様」
「まあ、今回についてはよくやった、と言ってよいだろう」
「あ、ありがとうございます……」
不意に褒められたことでリリアンナの動きが固まる。一方リリアンナの父ジェイクは執務机の上で手を組み、ため息をひとつついた。
「それにしても、噂にはなっていたがやはり魔法使いを引き入れていたとはな。レーティア卿と呼ばれていた男については調べておこう。それに殿下には物理的な口撃だけでなく、精神面での攻撃にも気をつけるよう進言しなければ」
「お願いしますわ」
仕立て屋での仕事の翌日。リリアンナは朝一番でハートウェル公爵家の執務室を訪れていた。突然やってきた娘にやや驚いた様子の彼女の父だが、彼女が報告した内容には苦い顔を浮かべるしかなかった。
無事、リリアンナの魔法により、心を操る魔法が解けたエラ。
彼女が言うには、パーシーとなかなか会えず、その上両親に、中堅伯爵家のパーシーよりもっと家格の高い相手と結婚して欲しい、と何度も言われ憂鬱だったところに、園遊会でセオドア王太子に微笑まれて、一瞬心がぐらついたのだと言う。
もちろん普通はそれだけでセオドアに心が動いたりはしないのだが、その直後レーティア伯爵、と名乗る人物に話しかけれ、気付いたら『自分は王太子に必ず見初められるはず』という考えに囚われていたのだという。
おそらく、一瞬の心のゆらぎを見て取ったレーティア卿が、セオドアに近づかせる駒としてエラを標的にしたのだろう。
その上、レーティア卿はノーティア男爵家に出入りし、エラを王太子妃にする策がある、と話してエラの両親にも取り入っていたのだという。
そこまで裕福でない男爵家にとって、娘が王太子妃になるチャンス、というのは多少危険な匂いのする話でも、乗りたくなってしまったのだろう、とリリアンナは推測した。
幸いリリアンナに治癒の魔法をかけてもらったエラは徐々に普通の精神状態に戻りつつある。すぐに元通り、というわけにも行かないだろうが、パーシーもついている。あの後パーシーと共にノーティア男爵家を訪れたリリアンナは、エラの主治医も呼んでもらい、事情を話して後を託してきた。
「それにしてもウェルテリア一派の勢いが止まらないな……これからシーズンの大詰めだと言うのに何も起こらなければ良いが」
そう低い声で言う父にリリアンナもゆっくりと頷いた。
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