はしばみいろの移り気

恋心は操れない

 ブリーズベル王国の人々にとって、秋の訪れは雨と共にやってくるものだ。


 たとえ雨がふらない日でも、夏の間は明るく照りつけていた太陽は雲に隠れることが多くなり、気温こそまだ暖かいとはいえ、時折吹く風は冷たいものに変わっている。


 古城の街、アッシェルトンもここ数日は曇り模様。毎年のこととは言え、どんよりとした天気にリリアンナも少し鬱々とする。彼女はそんな気分のまま、どっしりとした革表紙の本のページをめくった。


「うーん……やっぱり難しいわね。もともとブリーズベルにない魔法だからかしら?」


 彼女が唸っている理由は彼女の師匠クレアが新しく記した魔法書。以前訪れた西の島国で出会ったという魔法について解説したものだ。


 魔法使い達はそれぞれのいろについて書かれた魔法書を元にして、魔法の威力や範囲を定めた呪文を唱える。


 呪文を暗記していれば、理論上は魔法書ーー魔法使い達が使う本や手帳の類であるーーなしでも魔法を行使出来るのだが、読むだけで一苦労の古い文字で書かれたそれを暗記するのは不可能に近く、結局魔法使いといえば、何かしらの紙を手に入しているイメージがある。


 魔法について解説された魔法書を読み込み、自分のものにして、依頼者にとって最適な魔法を生み出せる呪文を唱えられるようにするのも魔法屋の勤め。


 幸い副業である刺繍の納期に余裕がある今日、リリアンナはいわばお勉強の真っ最中だった。


 さわさわ、という風の音だけがする店。とそこに不意にリリアンナを呼ぶやや切羽詰まった声がした。


「リリアンナさん? リリアンナさーん!」

「あら、その声は……ロイドさん! ごめんなさいね。今開けるわ」


 外で彼女を呼ぶ声すら聞こえない程熱中していたらしい。彼女の幼馴染アルフォンスのように勝手にドアを開ける程の図々しさを持たないロイドの困りきった声を聞いて、リリアンナは慌てて席を立ち、扉に飛びついた。






「先ほどは大変な失礼を……。改めまして、しょうびいろの魔法屋の店主、リリアンナと申します」

「いえいえ、こちらこそ突然お伺いして申し訳ございません」


 魔法屋の数件隣にある菓子店の店主、ロイドが連れてきたお客様を前に平謝りのリリアンナ。しかし目の前の青年は気にする風もなく、穏やかな笑みを浮かべていた。


 一目で上等な生地だとわかるフロックコートに身を包んだ明らかに貴族らしき青年はハーシェル伯爵の嫡男、パーシーだと名乗った。


 ハーシェル伯爵と言えば、アッシェルトンの中堅貴族。ソフィアやセオドアといった例外はあれど、基本的に上流の人々は訪れないこの店をわざわざ尋ねるとは、何があったのだろうか? そんな疑問を隠しつつ、リリアンナは


「さて、今日は何いろの魔法がお望みかしら?」


 といつもの言葉を口にした。


「魔法屋の方にこのようなことを聞くのはどうかとは自分でも思うのですが……人の心を捻じ曲げる魔法、というのは実在するのでしょうか」


 そんな言い方をする、ということは3つの約束の一つ、『ひとの心を変えぬこと』については正しく理解しているのだろう。実際パーシーは少し冷や汗をかいている。


 本当なら「そんな魔法はかけられません!」と一蹴するリリアンナだが、パーシーの真剣な様子に絆され、少し考える素振りをした後、一冊の本を本棚から取り出した。


「あるかないか、で答えるならばあります。にびいろの魔法がそうですね。もっとも善良な魔法使いであればまず使わない魔法ですが……」

「にびいろですか……どこか暗い色ですね」


 パーシーの言う通り、にび色は灰色に近い暗い色だ。そしてその効果は、術者が思う通りに相手の心を捻じ曲げる、というおよそ魔法使いとしては認め難いもの。


 もちろん3つの約束を完全に破ることになるし、ほとんどの魔法使いは知識として知ってこそすれ、実際に使うことはない。


「それで……そんな魔法があるか? とお尋ねの理由は? この魔法を使って欲しいというわけではなさそうですね」

「もちろんです! 誇りあるブリーズベル貴族の名にかけて。そのような魔法を使おうなどとは。ただどうもそんな魔法を使う悪しき魔法使いがいるようなのです」

「悪い魔法使い……ですか?」


 聞き捨てならない言葉に思わずリリアンナは身を乗り出した。


「私には以前から仲良くさせていただいている女性がいます。ノーテリア男爵の娘さんでエラ、という人なのですが……」

「エラさんですか」

「はい、もともとは我が家で行っている事業の関係で知り合いましてーー家格も釣り合っていますし、親同士の中も良好、ということで、婚約の話も出ていました。ただ今年の夏は大陸へ行かなければならない用事が多く、エラと会えない日が続き……そして先日、ようやく彼女と会えた、と思ったら自分とのことはなかったことにして欲しい、と突然言われたのです」

「それは……また」


 見るからに落ち込んだ様子で語るパーシー。その淀んだ表情に同情しつつ、リリアンナは続きを促す。


「最初は流石に彼女のことを放っておきすぎたのか、と思いました。とは言えきちんと手紙は送っていたのですよ。ただ聞くとどうやらそうではないらしく……エラは王子、セオドア王太子殿下に一目惚れをした、というのです」

「で、殿下にですか! いえ、どうぞ続きを」


 そこで突然出てきた予想外の名前にリリアンナは思わず声を上げる。だがパーシーは驚かれても無理はない、と苦々しく笑った。


「いえ、実際私にとって、もちろんエラにとっても殿下は雲の上の方です。しかしエラは『自分は必ず王太子に見初められて、彼と結婚出来るんだ』と断言するのです。その表情は血気に迫っていて、少し心配な程でした」

「まあ、殿下は確かに美丈夫ですし、優しいお方ですが……」

「えぇ、おっしゃる通りです。正直なところエラの手の届く人だとは到底思いませんがーーともかく、ああもきっぱりと別れたい、と言われれば私にはどうしようもありません。ただ、そう悲しんでいるわけにもいかない事情が明らかになりました。エラが懇意にしている仕立て屋の方が奇妙な情報を教えてくれたのです」

「それがつまり……悪い魔法使いに関する話でしょうか?」


 リリアンナは少し前のめりになり、パーシーに訪ねた。


「その通りです。その仕立て屋とエラは彼女が幼い頃からの付き合いでして、エラのことをかなり気にかけてくれています。曰く、最近エラが急にドレスをたくさん注文するようになったそうなのです、それもかなりの高級品を」

「急に? ですか」

「えぇ、ノーテリア家はそう裕福な訳ではありません。エラも貴族令嬢として恥ずかしくない程度にも着飾りますが、どちらかと言えば、華美に装うのは苦手と言ってましたし、ドレスの数も必要最低限しか持っていない、と言ってました」

「確かにそれは、気になりますね」

「はい。その上、彼女はこの夏から必ずある中年の紳士を伴って来店していて、支払いも全てその紳士がするそうなのです。しかも仕立て屋に来た時の彼女は必ずと行ってよい程、夢見心地で様子がおかしい。そして極めつけにその紳士が、手帳を片手に何やらブツブツと言っているのを見たのだそうです」

「それはもしかして魔法の呪文……でしょうか?」

「そこまでは分からなかったそうです。しかしエラの突然の変わりようを見れば、そう疑いたくもなります」


 もちろん手帳を片手に独り言をつぶやく機会はいろいろあるだろう。しかし突然の心変わりに散在、そして夢見心地な瞳、とくればリリアンナも魔法の存在を疑いたくはなった。


「と、いうことは今回のご依頼はノーテリア嬢が魔法にかけられているかを調べ、もしそうならば……」

「彼女を正気に戻してほしいのです。別に彼女の心がもう一度戻ってきほしいとは言いません。そもそも放っておいたのは私の自業自得ですし。しかしあの後、一度だけチラリ、と彼女に合いましたが、あんな操り人形のような瞳をした人は私の知るエラではありません。どうか彼女を元に戻してはいただけませんでしょうか」

「そうですねぇ……」


 懇願するようなパーシーの視線に、思わずリリアンナは瞳をそらし、店の奥にきれいに並ぶ革表紙の列に視線を走らせた。


 もしその紳士が本当に『人の心を曲げる魔法』を使っているならば、許せないし、エラとパーシーを助けたい。


 ただ、そう安請け負いできる簡単な依頼でもないことも事実だった。


「やはり難しいでしょうか……。無理をお願いしているのは承知なのですが、リリアンナさんは素晴らしい魔法屋だとガードナー伯爵令嬢にお聞きしまして。それにこんな話、貴族相手に依頼を受けている魔法屋さんになんてお願い出来なくて……」


 難しそうな顔をするリリアンナにパーシーが顔を歪める。彼の言う通り、もし、これが本当なら、貴族令嬢が魔法で心を操られ、よりにもよって王子に懸想したなど社交界では大きな醜聞だろう。


 上流社会について理解しつつ,街で暮らすリリアンナのもとへやってきたのはそういった理由もあるらしかった。


 魔法書を見据えながら、考え込んでいたリリアンナだが、結局彼女にとって目の前の困っている人を助けない、という選択肢はなかった。


「分かりました。お力になれるかは分かりませんが……できるだけのことはしたい、と思います」

「本当ですか! ありがとうございます。それで……実は早速で申し訳ないのですが、明日の夕方、その仕立て屋にエラが訪れるそうなのですが……流石に急過ぎますでしょうか?」

「いえ、特に予定もありませんし、問題ありませんわ。ではそこでまずはノーテリア嬢の様子を確認させていただければよいのですね」

「はい、お願いします。本当に、本当にありがとうございます」


 リリアンナの言葉にパーシーは何度も何度も深く頭を下げる。請け負いはしたものの、果たして彼女の力量で本当にエラが救えるかは未知数だ。


 リリアンナは若干の気まずさも感じつつ、当日の打ち合わせをパーシーと始めるのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る