あなたへ驚きを
「す、すごいですね、アリス様。本当に私が入っても良いのでしょうか?」
アリスが泊まっていたのはアッシェルトンでももっとも格式が高いと言われているレフィルトンホテルだった。古い建物であることから高さこそそこまでだが、一等地に立ち並ぶ他のホテルと比べてもその威厳は一つ抜けている。
玄関の大理石はそれは美しく磨かれ、そこに立つドアボーイの所作は、王城の侍従もかくやという程洗練されている。思わず軽く後ろずさりするリリアンナにアリスはくつくつと笑い声を漏らした。
「もちろん、私が招待したのですもの。それにあなただって本当は上流階級、こういった場所には慣れているんじゃないの?」
「お、お気づきだったのですか!」
「そりゃあもう、ふとした仕草を見ればすぐに分かるわよ。伯爵のご令嬢とかかしら? きっと訳ありよね」
「侯爵の娘です。いろいろあって家を飛び出しまして魔法屋を……。なのでこういった場所にはたまにしか出入りせず……」
「あら、想像以上ね。良いじゃない。若いうちは無茶しなさい。あなたの心に従うことがきっと最良の選択になるわ。さ、上にいきましょう」
そう言いつつ、ホテルの中に入ったアリスはさっと音もなく近づいたベルボーイに荷物を預けると、迷うことなくエレベーターへ向かう。
彼女もまた生まれた場所とは違う世界へ飛び込んだ一人なはずだが、その振る舞いは堂々としてリリアンナは思わず感嘆のため息をついた。
「さぁ、どうぞ狭い部屋ですが」
「まあ、ご冗談を」
アリスの言葉は本当に方便だろう。リリアンナが案内された部屋は、彼女が視線を1周させないと全体を見渡せない程度には広い部屋だった。しかもこれはあくまでもリビングで他に寝室がいくつか、もちろんクローゼットやバスルームもある、と言う。
「で、ここが問題の寝室ですわ」
アリスはややふわふわとしたリリアンナを寝室へと案内する。
その真ん中は大人が2人は余裕で横になれるであろう大きなベッドがどっかりと置かれている。その後ろにある、ちょっとしたサイドテーブルに、リリアンナがここへ来た理由であるぬいぐるみは置かれていた。
「あのくまさん達ですね。とても可愛らしいですわ」
ぬいぐるみを見て、そう言ったリリアンナだが、そのくま達はやや彼女の想像とは違う。
具体的には片割れが随分と大きいのだ。確かに両方ともつぶらな瞳が可愛らしいくまのぬいぐるみだが、その背丈は倍くらい違う。その上背丈が高い方は、体格もがっしりとしていて、なんとなく表情とは似合わない威圧感を感じてしまうものだった。
「でしょう? あのくまさん、旦那様そっくりですの」
「アリス様のご夫君は随分と体格の良い方でいらっしゃったのですね……」
思わずそう零すリリアンナにアリスはふふふと笑みを零す。
「確かに、ぱっと見はちょっと怖いし、大男だったけど、とっても優しい人なのよ。店の従業員にも随分慕われていたわ。で……どうかしら? 朝からくまさん達は動かしていないのだけど」
「そうでしたね。では少し触れてみても?」
「えぇ、もちろん。お願いするわ」
アリスの許可を得て、リリアンナはまず小さい方のくまを持ち上げてみる。しかし特に魔法が仕込まれているような様子はなかった。
「どうかしら? リリアンナさん」
「そうですね……特に変わったところはないですね……」
小さい方のくまをそっともとの場所に戻し、大きい方のくまも持ち上げてみるが、やはり変わったところはない。念の為、部屋の中もあちこち見て回ってみたが、やはりおかしなところは何もなかった。
「やっぱり、少なくともあらかじめ用意しておくタイプの魔法ではないようですね。……あとはすぐ近くに魔法使いがいる、というパターンでしょうか。宿帳を見せてもらええと良いのですが……果たして許してもらえるかどうか。とにかく一度お願いしてみましょう」
「ええ、そうね。私もご一緒するわ」
ぬいぐるみが勝手に動く、というのは不思議な現象だし、ここブリーズベルでなら、魔法使いの関与を疑うのは当然だ。かと言って証拠も何もない状態で、果たして宿泊客の情報を教えてもらえるかは怪しい。
とは言え、その線からアプローチする以外に思いつかなかったリリアンナは、せめて魔法使いがいるかだけでも教えてもらえないか、と期待を抱きつつ、アリスとともに部屋を出る。
と、廊下に出たところで、隣の部屋の客もちょうど出かけるととこらだったしく、やや大きな荷物を手にした老婦人がこちらへやってくる。
このホテルで侍女をつけていないのは珍しいな、と思いつつ、さっとリリアンナは道を譲ろうとして、顔を上げたリリアンナの表情が固まる。
そこにいたのは彼女の師匠クレアだった。
とっさに声を上げそうになるリリアンナだが、一瞬彼女が人差し指を唇に当てるのを見て、口を閉ざす。彼女がわざわざここに泊まっていて、しかもこの部屋で魔法が使われた、ということはそういうことだろう。
とはいえクレアが何か悪意のある魔法を使う、とは思えないし、となると、あの魔法は何かアリスの為に用意された魔法ーー大方アリスの夫、または家族からのプレゼントの布石である可能性が高かった。
「……突然ですが、ぬいぐるみが動いた理由が分かりました。なぜか、については今は言えませんが、アリス様に害をなすものではない、ということは言えます」
老婦人とすれ違った直後、やや固まってからなんとも言えない表情でそういうリリアンナに、アリスはやや困惑した表情を見せた。
「そ、そうなの? まあ害がないなら良いし、今も実害は出ていないけど……」
「きっと近いうちに種明かしはされると思います。きっとブリーズベルでの素敵な思い出の一つになると思いますので、アリス様はそれまでアッシェルトンを楽しんでいただければと……」
「じゃあ……リリアンナさんもそう言ってくれることだし、そうしようかしら。うん、それが良いわね!」
リリアンナの煮えきらない説明で納得してもらえるかは彼女自身心配だったが、アリスは自己完結するように大きく頷いた。
その様子にとりあえず、一安心したリリアンナは、招待してもらったことに感謝を述べ、これからまた街を歩く、というアリスとともにホテルを出たのだった。
特に目的も決めずに歩くこと小一時間。古城を中心に広がる古都アッシェルトンは、いくら歩いても飽きない程美しい街だ。
とはいえアリスももう結構な年。昔のようにいくら歩いても歩き疲れない、とはいかない。太陽の色が燃えるような橙色に変わり始めたあたりで、彼女はホテルの自室へと戻ってきた。
なんだかんだ1日中歩いたことでつかれたのだろう。やや倦怠感を感じたアリスは、夕食は少し遅めに部屋に持ってきてもらうようお願いし、部屋着に着替えて寝室に入る。
彼女の意図を汲み取った侍女たちにより、部屋は明るさは少し薄暗く調整されている。
少しだけ眠ろうか、とアリスがベッドに腰掛け、いつものようにベッドサイドに座る2匹のくまと目を合わせたところで、突然穏やかな、しかしよく通る声がした。
「まつばいろの魔法を」
すると突然寝室の壁が鈍い黄緑色に輝き、いつの間にか寝室全体が淡い光に包まれる。と次の瞬間これまで座っていたぬいぐるみ達がムクリと起き上がった。
ふ、と気づくと装飾として置かれていたレコードが回っていたようで、懐かしいワルツが流れ出す。
それに合わせて大きな方のくまが手を差し出し腰を折ると、それを受けて小さなほうのくまはその手をとって膝をゆっくりと折り曲げる。
表情は変わらないはずなのに、どこか嬉しそうな2匹の視線は互いしか見えていないようで、そしてゆっくりとその場で踊り始めた。
短い手足だと言うのに、器用なぬいぐるみたちはピタリとくっついて優雅に踊る。ゆっくりとした音楽に合わせて、サイドテーブルの上を所狭しと移動し、時に腕の中でくるりとターンを決める。
その様子にアリスは瞬きも出来ず、ただただ見入っていた。
「素敵……。素敵なプレゼントだわ、あなた」
その呟きは誰にも聞かれることなく、寝室に消える。いつの間にか音楽が止んだこと気付いた時には、既にぬいぐるみたちは、ただのぬいぐるみへ戻っていた。
少しの間、呆然としていたアリス。彼女がようやくその余韻から抜け出した頃合いを図って、寝室のドアが叩かれる。
その音にハッとして振り返ると、彼女の侍女が来客を告げていた。
「魔法使いのクレアさん、という方がいらっしゃっております。お通ししても?」
「はじめまして、ばらいろの魔法屋のクレアと申します。いやぁ随分驚かせてしまいましたよね。これはしっけい……」
「いえ、確かに驚きましたが……でも素敵な時間でした。あれはやはり、夫の依頼でしょうか?」
「えぇ、私は日がな世界中を旅して回っておりましてね。偶然1年ほど前にご夫君とお会いすることがあったのです。そこで頼まれたのですよ。可愛い妻へのプレゼントに協力して欲しい、と」
初対面の魔法屋に億面もなく、初老の自分のことを可愛い妻と言えてしまう夫にやや赤面しつつ、アリスはようやくこれまでのことを理解していた。
「夫とは、一度だけ魔法をかけてもらったことがありまして、以降ほとんど向こうにいたので魔法を見る機会がなかったのです。何度かまた見たいな、なんて話もしたかしら。まさか覚えていてくれたとは思いませんでした」
「ご夫君はアリス様と一緒にブリーズベルに来れないことを随分と嘆いてらっしゃいましてね。だからせめてこの旅は忘れられないものに、と」
「もう! あなたったら」
随分と厳しい顔つきで柔らかく笑う夫を思い出し、アリスは泣き笑いの表情になる。
そんな彼女をクレアは穏やかな表情で見守っていた。
「そう言えば……クレアさんは『ばらいろの魔法屋』ですよね。今日、似たような魔法屋さんにお会いしましたわ。随分可愛らしいお方で……『しょうびいろの魔法屋』と名乗っておられました。同じ意味の言葉ですよね?』
ようやく落ち着いたアリスがボソリと口にした言葉にクレアはなんとも言えない表情を浮かべた。
「あぁ……リリアンナのことですね。昼間に会いましたよ。彼女は私の弟子です。彼女が頑張ってくれているおかげで私はこうして好き勝手に旅をして回れているのですよ」
「あら、お弟子さん。だからなんとなく雰囲気がにていらっしゃるのね」
「おや、それは光栄なことを言ってくださいますね」
初めて会う二人だが、どこが波長が会ったらしい、せっかくだから夕飯でも、との誘いをありがたく受けることにしたクレアは、アリスに請われて、彼女が旅した国の話を始める。
もう、随分と歳を取っているが、アリスの好奇心はまだ収まるところを知らないらしい。クレアの旅行記にくるくると表情を変えるアリスを見つつ、こんなところに彼女の夫は惚れたのだろうか、と想像するクレアだった。
「はい、アル。どうぞ、熱いから気を付けてね」
「ありがとう、リリ。悪いなこんな時間に」
「こんな時間って、まだ陽も沈んでいないわよ」
ご機嫌伺い、と称して夕暮れ時に魔法屋にふらりと立ち寄ったリリアンナの幼馴染アルフォンス。
いつものように、彼を店内へ迎え入れた彼女は刺繍道具をえいやっと端に寄せ、大きなマグに紅茶を注いでアルフォンスに渡した。
「へぇ……クレア様が。こっちへ戻って来ていたんだな」
「いや、また旅に出てたはずなのよ。だけどきっと今回のために一旦帰国したのね。相変わらず忙しい……」
「ははは、クレア様らしいね」
アルフォンスと向かい合い、お茶を飲む。今日一番の話題はなんといっても彼女の師匠クレアのことだった。
「もうそろそろ、師匠の魔法が発動しているかしら? アリス様喜んでくださっていると良いんだけど」
「大丈夫だろ。クレア様は人を傷つける魔法を使う人じゃない」
「まあね。……困らせてはいたけど。夜の間に勝手にぬいぐるみが動いたら、たとえご夫君からのプレゼントでも驚くわよね。大方魔法の練習だったのでしょうけど」
「クレア様でもそんなうっかりあるんだな」
「ものを動かす魔法、なんて使う機会あんまりないしね。対象が見えない状態での魔法は難しいのよ」
だから、ピタリともとの位置にぬいぐるみを戻すのは至難の業だろう、とリリアンナは話した。
「にしても人生で2回目の魔法か……素敵なプレゼントだな」
「ええ、愛する妻への最後のプレゼントの一つに選んでいただけるなんて、魔法屋冥利に尽きるわ」
「きっと、ご夫君もアリス様が喜んでい姿を見て笑っているだろう」
「えぇ、そうね。きっとそうなはずよ」
いつの間にか眩しくなってきた夕陽を感じつつ、窓の外へ視線を向けるリリアンナ。
彼女の脳裏には今日出会った素敵な老婦人の笑顔が浮かんでいた。
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