第2話

 京香が営業部に書類を届けに行くと、市原が対応に出てきた。


「さっきはどうも」

「あ、どうも。この間の二次会盛り上がったみたいですね」

「ああ、佐々木さんだけ先に帰ったもんね」


 お前のせいだよ、と言ってやりたい気持ちだった。


「そうなんです。次の日予定があったので」

「そっか。じゃあもしよかったら、今夜飯でも行かない? この前はあんまり喋れなかったし」

「え? あー……はい」


 京香は咄嗟に適当な断り文句が思い浮かばず、思わず「はい」と返事していた。てっきり自分は、感じの悪い女の烙印を押されたと思っていた京香は、突然の誘いに戸惑っていた。


「じゃあ終わったら連絡して」


 そう言われ、市原から名刺を受け取った。


 京香は自分のデスクに戻ってしばらく考えていた。

市原から食事に誘われるのは、どう考えてもおかしいのだ。

「この前はあまり喋れなかったから」と市原は言ったが、どうも釈然としなかった。

 京香は、あの日の市原の言葉を思い出した。


 “女だって普通に浮気すんじゃん”


 それはまるで経験者かのような口振りだった。

 京香は、自分がそれの対象なのではないか、と思えてならなかった。



『お疲れ様です。佐々木です。今終わりました』

『お疲れ様。会社のそばのカフェで待ってるよ』


 遠くからでもすぐにわかった。テラス席でカップを傾ける市原は、確かに絵になる。

 そうして、そんな市原に近付き声をかけた自分に対しての周囲の反応に驚愕した。

 ――そういうことか。

 やはり市原は会社だけではなく、どこにいても人を惹き付ける魅力を持っているようだ。

 そんな視線を横目に、京香は言った。


「お待たせしました」


 そして優越感に浸った。


「まだちょっと早いけど行こうか。勝手に店の

予約したけど良かったかな」

「あ、はい。何でも食べれます」

「いいね、その反応。誘い甲斐あるよ」


 市原はにっこり微笑んだ。


「あの……二人ですか?」

「え? そうだけど……嫌だった?」

「あ、いえ。そういう事じゃなくて」


 必ず裏があるはずだ、と疑ってやまない京香は、神経を尖らせて様子を窺っていた。

 他愛もない会話をしながら、数分歩いたところで到着したのは、雰囲気のいいイタリアンの店だった。

 会社の近くにこんなお洒落な店があったのか、と京香は店内を見渡した。

 席に着くと、市原は京香の方に向けてメニューを広げた。


「食べたいものある?」

「うーん……迷いますね」

「嫌いなものなかったら、何か適当に頼むよ。一緒につまもうか」


 リードする市原に好感が持てた。


「ここ、妻と何度か来たことあったんだ」

「へえ、そうなんですね。雰囲気良くてデートにはぴったりなお店ですね」


 言ってから、おかしな言い方をしてしまったか、と考えたが、市原は気にしている様子もなかった。


 会話を交わしていくうちに、京香の警戒心は少しずつ薄れていた――どころか、かなり楽しい時間を過ごしていた。

 市原は営業マンだけあって、話題も豊富で、コミュニケーション能力に長けていた。



「あ、ちょっと喋り過ぎたかな。佐々木さん時間大丈夫?」


 時計の針は十一時を指していた。


「時間は大丈夫なんですけど、ちょっと酔っちゃったかも……」


 京香は上目遣いで市原の様子を窺った。


「ごめん、飲ませ過ぎたよね。タクシーで家まで送るよ」


 いつの間にか会計は済まされていた。

 何ともスマートでさすがだ、と京香は感心した。だが、心の中までは分からない。

 本当にこのまま自分を送り届けるのか、それともどこか別の所へ向かうのか――

 大通りに出てタクシーを拾うと、横並びで座った。


「大丈夫? 寒くない?」


 市原は着ていたコートを脱ぐと、京香の膝にそっとのせた。

 軽快なトークを繰り広げていた先程までの市原とはうってかわって、紳士的な態度だった。その後は特に言葉を交わさず、窓の外をぼんやりと眺めていた。


「あ、もう近くなのでこの辺で大丈夫です」


 京香が鞄から財布を取り出した。


「帰り道だから気にしないで。ここから一人で大丈夫?」


 市原は金を受け取らず、京香を気遣った。

 京香は丁寧に礼を言ってタクシーを降り、何となく後味が悪いまま、テールランプを見送った。


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