第9話

第9話:絶望の中で


玲奈は大学を去る決意を固めてから、何度もその決断を振り返った。大学生活が終わるまで、あと少し。もう何度も考えた。陽一との関係を断ち切り、千紗とも完全に距離を取った今、自分に残されたものは何だろうか。


キャンパスを歩くたびに、胸が重くなる。過去の思い出が、どこかで自分を見つめ返してくる気がして、足を止めることすらできない。陽一のことを思い出すたび、胸が締めつけられた。結衣との関係が続いていると聞いた。それでも、彼の目に映る自分はもはや遠く、無関心であるように感じた。


「もう、いいんだ」と、玲奈は思うことにしていた。


だが、陽一のことを完全に諦めることはできなかった。どうしても心の奥底で、何かが動いているような気がした。それは絶え間ない痛みのようでもあり、未練のようでもあった。彼が自分に対して抱いていたかもしれない思いが、まだどこかに残っているんじゃないかと、たまに幻想に思えてしまうのだ。


そんな時、玲奈の前に現れたのは、陽一だった。


その日、玲奈は一人で図書館の隅に座り、無理に本を開いていた。心の中では、彼にどう接すればよいのかがわからなかった。陽一が来るとは思っていなかった。彼が自分に話しかけることは、もうないだろうと信じていたから。


突然、目の前に座った陽一の顔を見たとき、玲奈は息を呑んだ。


「玲奈。」陽一の声が、少し震えているように感じた。


その声に、玲奈は反射的に顔を上げた。彼の表情には、いつもの冷静さがなく、代わりに、何かを伝えようとしている切迫したようなものが浮かんでいた。


「どうして…?」玲奈の声は、驚きと共に震えていた。彼がここにいる理由が分からなかった。


陽一は少し間を置き、深呼吸をした。そして、ゆっくりと言った。「玲奈、俺、ずっとお前を避けてた。でも、それが一番間違っていた。」


その言葉が、玲奈を強く打った。今、陽一がどうしてこんなことを言うのか、玲奈には全く分からなかった。だが、彼の目を見つめると、どこかで見たことのない不安と焦燥が渦巻いているのがわかった。


「お前と離れたことで、俺がどれほど苦しんでいたか知ってるか?」陽一の声は少し高くなった。


玲奈は、ただ黙って聞いていた。陽一が自分を避けていたのは確かだった。その理由が、今になって急に明らかになるとは思ってもみなかった。


「でも、結局俺はお前を忘れられなかった。どうしても、お前が頭から離れない。」陽一は言葉を詰まらせた。「でも、それでもお前に近づくことができなかった。俺には、結衣もいたから。」


その言葉を聞いて、玲奈の胸はしびれるように痛んだ。結衣の名前が出てきた瞬間、すぐに彼がどれほど結衣に未練を抱いているのかが分かってしまった。


「結衣とのことが、まだ完全には終わっていなかったんだろ?」玲奈は冷静に言った。


陽一は沈黙した。まるで、何も言えないような表情をしている。やがて、彼はゆっくりと首を縦に振った。


「そうだ。でも、俺は今、もう一度お前に謝りたい。」陽一の声には真摯なものがこもっていた。しかし、玲奈にはそれが本当に心からの謝罪だとは思えなかった。どれほど彼の言葉が真実だとしても、もう遅すぎるように感じていた。


玲奈は目を閉じ、深く息をついた。痛みが胸を締めつけて、息ができないような感覚になった。


「もう、遅いんだよ。」玲奈はゆっくりと答えた。「私も、自分の気持ちを整理しなきゃいけないんだ。陽一、私を傷つけすぎた。」


陽一はその言葉を聞いた瞬間、痛みを感じたように顔を歪めた。しかし、玲奈はそれでも目を逸らさなかった。彼の言葉が全てだったわけではない。過去の出来事が、あまりにも重すぎて、今更どうしても戻れなかった。


「俺は、結局、何もできなかった。」陽一は静かに呟いた。その表情には、深い後悔と絶望が漂っていた。


玲奈はその言葉を聞いたとき、心の中で何かが崩れる音がした。陽一もまた、誰かに救いを求めていたのだ。だが、それは今、もう遅すぎるのだ。玲奈はそう感じた。


「私は…もう誰にも頼らない。」玲奈は低くつぶやいた。「誰かに支えられることなく、自分だけで生きていく。」


その瞬間、陽一は何も言わず、ただ黙って立ち上がった。そして、背を向けて歩き出す。その姿を見送る玲奈の目から、何かがぽろぽろとこぼれ落ちた。


それが涙だったのか、何なのか分からなかった。ただ、胸の奥で何かが切れていく音がした。


陽一が去った後、玲奈は長い間、そこに座り込んだままだった。空っぽな心で、ただひたすらに時間が過ぎていくのを感じていた。


そして、最終的に玲奈は一つの結論に達した。


「もう、誰とも関わらない。これが私の選んだ道だから。」

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