第32話 氷の観測台

観測台の中心で、星図に従った光の反射が星空を映し出していた。北極星を基点とする光の軌跡は、天体が規則的に動いていることを正確に示している。古代の装置が描き出したその光景は、地動説を裏付ける明確な証拠だった。


エリアスは、剣を握る手をゆっくりと下ろした。その冷徹さで知られる彼の瞳には、かすかな迷いが浮かんでいる。壁一面に映し出された光の動きが、彼の胸の奥深くに眠っていた何かを静かに揺り動かしていた。


「これが…君が守ろうとしているものか。」

エリアスは低く呟いた。


アナスタシアは星図を抱え、傷だらけの体で震えながら立っていた。

「これが父の残した真実です。星々が語る声を、あなたも見ているでしょう?」

その声には怯えよりも、確信に満ちた力があった。


エリアスの記憶に、かつての自分が蘇った。まだ若かった頃、彼は星を愛し、夜空を見上げながら天文学に夢中になっていた。教会の神学を学びながらも、星々の運行に隠された法則に魅了され、観測を繰り返していた。


だが、教会の厳しい規律と、科学を「異端」として扱う現実が彼を星々から引き離した。ある時、彼は科学者の友人を告発するよう命じられ、その友人が処刑される場面を見届けた――それが彼の心に重い影を落とした瞬間だった。


「星々が語る声など、信じて何になる?」

彼はかつて自分に問いかけた。科学を追い求めても、それは人々に希望ではなく恐れと混乱をもたらすだけだと考えた。それ以来、彼は科学を否定し、教会の秩序を守る道を選んだのだった。


だが、目の前で星図と装置が語る真実を見せられた今、エリアスの信念が揺らぎ始めている。アナスタシアが命を懸けて守ってきたものが、かつて自分が追い求めたものと同じ輝きを放っている。


「エリアスさん…。」

アナスタシアが静かに声をかける。「あなたも、この光を見て何かを感じているはずです。星図が語る真実を否定するのは、もう無理だと思いませんか?」


エリアスは目を細め、剣を握り直した。だが、剣を振り下ろすことはできない。彼の内心では二つの声がぶつかり合っていた。


「秩序を守ることが正しい。科学は危険だ。」

「だが、これが真実なら…私は何を守ってきた?」


彼はその場に立ち尽くし、歯を食いしばる。「君には分からないだろう。秩序を守るということが、どれだけの犠牲を伴うかを…」


「分かっています。」

アナスタシアは声を強めた。「でも、秩序を守るために真実を隠し、嘘を伝えることが本当に正しいのでしょうか?人々はいつか、真実を知る力を持つはずです。私たちがそれを奪う権利はありません!」


エリアスはその言葉に表情を歪めた。彼女の言葉は鋭く、彼の心の奥深くに刺さっていく。かつて自分が天文学に憧れた頃の純粋な気持ちを、彼女の声が思い出させてしまう。


「それでも、混乱を防ぐのが教会の役目だ…!」

エリアスは自分に言い聞かせるように叫んだ。しかし、その声はどこか弱々しく、震えている。


アナスタシアは星図を胸に抱え、涙を浮かべながら言葉を続けた。

「あなたも分かっているはずです。星々が語る真実を無視することなんてできない。それを否定することが、どれだけ多くの人を苦しめるか…!」


エリアスは剣を握る手をゆっくりと下ろした。彼の目には苦悩の色が浮かび、しばらく何も言わずに星図と装置を見つめていた。


やがて彼は静かに言った。

「君が信じるものを守れ。だが、それが人々を不幸にするなら、私は君を討たざるを得ない。」


アナスタシアはその言葉に頷き、星図を握りしめた。彼女の瞳には、涙の中に確かな決意が宿っている。


「それでも、私は真実を信じます。」


エリアスは剣を納め、背を向けて歩き出した。

「君の決意は分かった。だが、次に会う時は、教会の敵として覚悟するんだな。」


その言葉を残し、エリアスは観測台を後にする。その姿はどこか孤独に満ち、かつての自分を否定することができない葛藤を滲ませていた。


アナスタシアはその背中を見送りながら、小さく呟いた。

「真実がきっと、あなたを救いますように…。」


崩れかけた観測台の中、アナスタシアは星図を抱きしめながら、星空を投影する装置の最後の光景を見つめていた。古びた装置が導き出した光の軌跡は、父が追い求めた地動説を証明するものであり、科学の新たな道を切り開く鍵だった。


「これで父の研究が完成する…!」

彼女の目には涙が浮かんでいた。だが、それは安堵や喜びの涙ではなかった。父、ナディア、ジョゼフ――すべてを犠牲にしてここまで来た現実が、胸を締めつけていた。


観測台の崩壊が進む。壁が音を立てて崩れ落ち、天井から瓦礫が降り注ぐ中、星図の記録を完成させる時間は残りわずかだった。


星図を広げたアナスタシアは、装置が放つ光をその上に重ねるようにして記録を完成させた。光が星図の座標を正確に映し出し、最後の暗号を解き明かしていく。


「これが…父の残した真実。」

彼女は震える声で呟いた。星図には地動説を裏付けるすべてのデータが記録されている。それを胸に抱きしめ、アナスタシアは装置を後にしようと足を踏み出した。


だが、その時、大きな揺れが観測台を襲った。装置が崩れ落ち、最後の光が一瞬乱れる。瓦礫が足元に迫る中、アナスタシアは全身を強張らせながら出口を目指した。


観測台の外に出ると、冷たい雪原が広がっていた。朝焼けが地平線に差し始め、夜空の星々が静かに消えゆく。


だが、その静寂を破るように、雪を踏みしめる足音が迫ってきた。教会の兵士たちが観測台を包囲し、アナスタシアを追い詰めようとしている。松明の光が彼女の前方を揺れ動き、逃げ場はほとんど残されていなかった。


「ここで捕まるわけにはいかない…!」

アナスタシアは自分に言い聞かせ、星図を抱きしめながら必死に走り出した。


兵士たちの怒声が背後から聞こえる。彼らが迫る中、アナスタシアは雪の中を全速力で駆け抜けた。


走り続ける中、アナスタシアはふと足を止めた。目の前には、崖が広がっている。下には凍てついた海が広がり、飛び降りれば生き延びる可能性はほとんどない。


後ろでは、兵士たちが松明を掲げて追いつこうとしている。彼女の選択肢はもう残されていなかった。


「ここで終わるの…?」

彼女は星図を握りしめ、冷たい風に晒されながら立ち尽くした。だが、その時、脳裏にナディアやジョゼフの言葉が浮かんだ。


「星図を未来に繋げるんだ。」

「君が信じる未来を、証明してみせろ。」


彼女は震える手で星図を懐にしまい、崖の縁に立った。


「私の命は終わっても、この星図を渡すわけにはいかない。」

静かに呟くと、彼女は崖から一歩後ろに下がった。そして、大きく息を吸い込むと、星図を抱えたまま冷たい海へと飛び込んだ。


凍てついた海の中で、アナスタシアの意識は薄れていった。冷たさが体を蝕む中、星図を手放さないよう、彼女は必死に腕に力を込めた。


「これが…私の使命。」

そう呟きながら、彼女の視界はだんだんと暗くなっていく。


それからどれくらい経っただろうか。アナスタシアは朦朧とした意識の中で、淡い光を感じた。彼女を引き上げる手があり、聞き覚えのない声が遠くから聞こえる。


「生きている…この人、星図を抱えているぞ!」


彼女を救ったのは、教会に反発する天文学者たちの地下組織だった。彼らは教会の目を逃れながら、真実を広める活動をしていた。


薄れゆく意識の中で、アナスタシアは星図が未来へ繋がる可能性を感じた。


数ヶ月後、星図を手にしたアナスタシアは、新たな観測地点へと向かっていた。教会の影響が及ばない場所で、科学の真実を守り、広めるための計画を進めていた。


「星々が語る真実を守り続けること。それが私の使命。」

彼女は静かに呟き、夜空に輝く星々を見上げた。


【エンディング】


アナスタシアの旅は続く。星々が示す未来を信じ、彼女は新たな地平を目指して歩み始める。その背中には、父の夢、仲間たちの犠牲、そして星々の真実が託されていた。


読者へのメッセージ

「星図が語る未来とは、私たちが選び取る希望そのものです。この物語が、読者の皆さまの中に光を灯し、新たな挑戦への一歩を促すものであれば幸いです。」

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【毎日17時更新】チ。―地球の運動について― II: 星々の歌声 湊 マチ @minatomachi

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