第21話 孤島の星①
朝焼けが、水平線をぼんやりと染め始めていた。周囲を見渡せば、どこを切り取っても青と緑しかない。空と海、そして遠くに見える孤島の輪郭。そのどれもが、不自然なくらい静かだった。
「やっと見えたな。」
ナディアが舵を握りながら呟いた。彼女の声は、朝の冷たい空気に溶け込むように低く響いた。甲板の上では船員たちが疲れ切った体を引きずるように動き、誰も彼女に応えない。
「本当にここでいいのか?」
ナディアが後ろを振り返ると、アナスタシアが船尾に腰掛け、膝の上に広げた星図をじっと見つめていた。何かを計算するように鉛筆を走らせているが、どこかその手は震えているようにも見える。
「間違いありません。」
アナスタシアは顔を上げずに答えた。その声はどこか遠く、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。
「そりゃ頼もしいな。」
ナディアは皮肉を込めて笑ったが、アナスタシアはまるで気にしていないようだった。
島が近づくにつれて、海の水が異様に透明になり、底の見えない深さを感じさせた。甲板に立つ船員の一人がぼそりと呟く。「こんな静かな海なんて見たことねえ。まるで、何かが隠れてるみたいだ。」
「そういう余計なことは言うな。」
ナディアが軽く叱りつける。彼女の声は相変わらず落ち着いているが、その手元は舵を握る力が少しだけ強くなっていた。
島が近づくにつれ、その全貌が徐々に明らかになった。荒々しい崖が海面に突き立ち、波がその足元を削り取ろうとしている。頂上には濃い緑の森が広がり、その中に何かの建物らしき影が見えた。
「観測台か…。」
アナスタシアが小さく呟いた。
「父さんが最後に記した場所だ。」
彼女の声は再び硬さを帯びている。星図の中で父がこの場所を特別に記した理由を、彼女はまだ完全に理解していない。それでも、この場所に真実があると信じるほかない。
船が島の近くまで来ると、海岸の様子がはっきり見えてきた。白い砂浜とゴツゴツした岩場。そのどちらにも、何の気配もない。だが、船員たちの間には奇妙な緊張が漂っていた。誰もが無言のまま、何かが起きるのを待っている。
「嫌な予感がする。」
船員の一人が口を開く。
「そりゃ、この状況で楽観的な奴がいたら、そいつを海に放り込んでやるよ。」
ナディアが軽く肩をすくめて答えたが、その表情は冗談を言うには少し真剣すぎた。
アナスタシアは星図を巻き直し、そっと立ち上がった。「大丈夫です。この島には…希望があります。」
「希望?」
ナディアが振り返り、苦笑した。「私が今ここで見てるのは、ただの荒れた島だ。どこをどう見たら希望があるんだ?」
「星図が示している場所です。」
アナスタシアの声は震えていなかった。
船が錨を下ろし、船員たちが小さなボートを使って島へと向かう準備を始めた。ナディアは短剣を腰に差し込みながらアナスタシアに言う。「上陸したらすぐに動くんだ。のんびり観測なんかしてる時間はないぞ。」
「分かっています。でも…星図が示しているものを見つけるまでは帰りません。」
アナスタシアの言葉には固い意志が感じられた。それが頼もしくもあり、どこか危ういものにも思えた。
「本当にしぶといお嬢さんだ。」
ナディアが笑いながらボートに乗り込む。彼女の後ろでアナスタシアが静かにその場に続いた。
ボートが島に近づくと、鳥の鳴き声ひとつしない異様な静けさが彼らを包み込んだ。ナディアがふと空を見上げると、黒い鳥が高く旋回しているのが見えた。
「歓迎されてない気がするな。」
その一言に、船員たちは誰も答えなかった。
アナスタシアは遠くを見つめたまま、胸元の星図をぎゅっと握りしめた。「父さん…ここに何を隠したの?」
その答えは、島の奥深くに眠っているはずだった。
砂浜にボートを引き上げたナディアが、短剣を腰に差し直しながら周囲を見渡した。荒涼とした景色が広がり、足元の白い砂が妙に冷たく感じられる。
「よくもまあ、こんなところに希望があるなんて言えるもんだな。」
ナディアは軽く鼻を鳴らしながら、アナスタシアを振り返った。
「父が記した星図がここを指しているんです。」
アナスタシアは星図を胸に抱えたまま、視線を海岸からさらに奥へと向けた。その先には、鬱蒼とした森が広がり、森の奥から何かを見透かすような冷たい気配が漂っていた。
「行くのか?」
ナディアが尋ねた。
「もちろんです。」
アナスタシアは一歩足を踏み出したが、その声にはわずかな迷いが混じっていた。彼女自身も、この島がただの観測地点ではないことを肌で感じ取っていた。
「待て。」
ナディアが彼女の肩を軽く引き止めた。「この島が何か隠してるってのは分かった。でも、そこにあるのが星図に記された真実なのか、それともただの墓場かは分からない。」
「分からないからこそ、確かめる必要があります。」
アナスタシアは目を細めて答えた。彼女の言葉は鋭く、決意に満ちていた。
船員たちは恐る恐る森に入る準備を始めた。それぞれが短剣や棍棒を手に持ち、できるだけ声を潜めて動いている。風が止み、森の中から鳥の鳴き声さえも聞こえない不気味な静けさが漂う。
「森に入るのはいいが、全員くれぐれも気をつけろ。」
ナディアが船員たちに低く言った。「こんな場所で何かに出くわしても、私は責任を取らない。」
アナスタシアは星図を抱きしめ、森の奥を見つめた。「ここには必ず…父の求めた答えがあるはずです。」
森の中は薄暗く、湿った土の匂いが鼻を突いた。木々の間を歩くたび、足元の枝がパキリと折れる音がやけに大きく響く。船員の一人が小声で呟いた。
「誰か、見てる気がしませんか?」
その言葉に、全員が足を止めた。ナディアも動きを止め、周囲に鋭い視線を走らせる。しかし何も見えない。ただ、風のような気配が木々の間をすり抜けていくだけだった。
「気のせいだ。」
ナディアが静かに言い、歩みを再開させた。しかし、その声にはかすかな緊張が滲んでいた。
森を抜けた先には、石造りの古い建物が姿を現した。それは年月を経た崩れかけた観測台で、蔦が絡まり、壁の一部は崩落していた。それでも、かつてここが天文学のために使われていたことを証明する道具や記録の一部が残されていた。
アナスタシアの目が輝いた。「ここです…父が記した場所。」
彼女は足早に建物の中へと向かい、その周囲を調べ始めた。古い記録や器具の中に、星図の追加情報が隠されていると確信していた。
「待て。」
ナディアが後を追い、建物の入口で足を止めた。「これ、本当に大丈夫なのか?」
その問いに答える間もなく、森の中から微かな物音が聞こえた。人の足音だ。
「誰か来る!」
船員の一人が叫ぶ。全員が身を潜め、武器を構えた。
森の奥から現れたのは、ボロ布に身を包んだ複数の男たちだった。その顔には疲労と怯えが浮かんでいるが、その目はどこか狂気を孕んでいる。
【次回予告】
孤島の観測台に隠されていた天文学者たち。彼らは友か、敵か?アナスタシアは星図のさらなる秘密を追い求めるが、島全体を包む異様な気配が徐々に彼女たちを追い詰めていく。そしてついに、教会の追撃が孤島に迫る――。
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