第15話 光の証明②
入り江の夜は、森から響く微かな音で満たされていた。草を踏む音、木々をかすめる風のささやき――それらは普通の夜ならば無害で美しいものだろう。だが今、この音は確実に迫り来る危険を告げていた。
ナディアは甲板の中央に立ち、手元の短剣を握りしめた。鋭い目が森の影を捉えようとする。「奴ら、もうすぐここに来る。全員、気を引き締めろ。」
船員たちはそれぞれ武器らしきものを手に取り、声を潜めて動き出した。中には古びた棍棒や簡易の槍を握りしめている者もいる。彼らはみな怯えていたが、ナディアの冷静な声に少しだけ勇気をもらったようだった。
「船長…」一人の若い船員が震えた声で尋ねた。「本当にここで戦うんですか?相手は教会の兵士ですよ。俺たち、勝てるんですか?」
ナディアは彼を一瞥し、低い声で答えた。「勝つ必要なんてない。奴らに『簡単には奪えない』と思わせるだけで十分だ。それだけで時間が稼げる。」
船尾では、アナスタシアが広げた星図を見つめていた。震える指で鉛筆を握り、観測データを書き込み続ける。彼女の顔には疲労と緊張が浮かんでいたが、その瞳には強い決意が宿っていた。
「このデータが完成すれば…父の理論が証明される…。これが私の使命…私がここにいる理由…。」
彼女は小さく呟いた後、顔を上げて夜空を見上げた。輝く星々が彼女の心に勇気を与えているように思えた。その瞬間、ナディアが彼女の元にやって来た。
「お嬢さん、準備はいいか?」ナディアは小声で問いかける。「奴らが攻めてきたら、星図どころじゃなくなるかもしれない。安全な場所に隠れることを考えたほうがいい。」
アナスタシアは顔を上げ、ナディアを真っ直ぐに見つめた。「私は逃げません。この星図を守ります。それが父の夢であり、私がここにいる理由です。」
ナディアは少しだけ笑みを浮かべた。「そうか。馬鹿な覚悟だが、嫌いじゃない。その覚悟、最後まで守ってやる。」
その頃、森の中では教会の兵士たちが進軍を続けていた。異端審問官エリアスは先頭を歩き、慎重に周囲を見渡している。その目は冷静で、恐怖や迷いの色は微塵もなかった。
「ここだ。」彼は立ち止まり、手を上げて兵士たちを止めた。「船のカモフラージュが見える。奴らはここにいる。」
兵士たちはその言葉に従い、音を立てずに散開しながら船を取り囲む準備を始めた。エリアスは森の影から入り江を見つめ、冷たく静かな声で指示を飛ばした。
「音を立てるな。船に火をつけろ。彼らを甲板に追い詰めるんだ。星図を奪うのが最優先だ。」
「もし奴らが反抗してきたら?」一人の兵士が尋ねる。
エリアスは振り返りもせずに答えた。「星図を守るためなら命を奪え。だが、星図を失うような行動は許されない。慎重に動け。」
「来たぞ!」見張り台の船員が叫んだ。「森の中に光が見える!奴らが近づいてくる!」
ナディアはその声を聞き、短剣を抜いた。「全員、持ち場につけ!静かにしろ。奴らを引きつけてから動くんだ。」
船員たちはその指示に従い、息を潜めて待機した。一方、アナスタシアは星図を抱え、最後の観測データを書き込みながら、小さな声で祈るように呟いた。
「星々よ…どうか私たちを守ってください…。」
森から現れた兵士たちはロープを使って船に取り付こうとしていた。ナディアはその動きを見逃さず、一人の兵士が甲板に上がろうとした瞬間、短剣を振り下ろして彼を叩き落とした。
「簡単に奪われてたまるか!」彼女は叫び、次々と押し寄せる兵士たちに応戦した。
その頃、船尾にいたアナスタシアは、背後から迫る気配に気づいた。振り返ると、そこにはエリアスが立っていた。
「君がアナスタシアだな。」彼は冷たく低い声で言った。「星図を渡せば、命は助けてやる。」
アナスタシアは震える手で星図を抱きしめた。「渡しません…たとえ命を失っても。」
エリアスは冷笑を浮かべた。「命を惜しまないのは結構だが、それが君の父の望んだことか?愚かだな。」
アナスタシアは一歩下がり、船尾の端に追い詰められる。しかし、その瞳には恐れではなく、強い意志が宿っていた。
「私の父は真実を追い求めて命を失いました。それを守ることが、私の使命です。」
教会の兵士たちは激しい抵抗に遭い、甲板に乗り込むことができなかった。エリアスはその様子を冷静に見つめ、やがて静かに指を振った。
「一旦退け。」彼は静かに命じた。「夜が明ければ、彼らに逃げ場はなくなる。」
兵士たちは指示に従い、森の中へと消えていった。入り江には再び静寂が戻り、ナディアは甲板に座り込み、深い溜息をついた。
「何とか持ちこたえたな…。だが、これで奴らが諦めるわけじゃない。」
アナスタシアは星図を胸に抱きしめ、夜空を見上げた。「星々は私たちを導いている…。次は私たちが動く番です。」
月は雲に隠れ、入り江の空気は重たく冷たい。森を抜け、退却していく兵士たちの気配が遠ざかるにつれ、再び訪れた静寂が、かえって耳に痛いほどだった。
船員たちは甲板に座り込み、荒い息を吐いている。ナディアは短剣を鞘に戻し、立ち上がると疲れた表情のままアナスタシアを見た。
「お嬢さん、あんたの星図がこの船を危険に晒してることは分かってるな?」
アナスタシアは静かに立ち上がり、星図を胸に抱きしめた。彼女の視線はナディアのものと交わるが、怯えや後悔の色はない。ただ、どこか深い静けさを感じさせる決意だけがあった。
「分かっています。」アナスタシアの声は震えず、穏やかだった。「でも、この星図は真実を示しています。だから私は、この船とみなさんの命を危険に晒しても、この星図を守り抜かなければならない。」
「真実だって?」ナディアは冷笑を浮かべた。「あんたがいうその『真実』は、一体誰のためのものなんだ?教会にとっては異端者を処刑するための大義でしかない。」
「それでも。」アナスタシアは静かに言った。「教会がどれだけ否定しても、星は嘘をつきません。星図が示すのは、ただ一つの事実です。地球が動いているということ。それが父の命を奪った真実です。」
ナディアは溜め息をつき、甲板に腰を下ろした。「まったく、呆れたお嬢さんだ。」
その頃、森を抜けたエリアスは、兵士たちを集めて冷静に語っていた。
「彼らの抵抗は思った以上だ。」エリアスは兵士たちを見渡す。「だが、彼らは真実を隠し通せると思い込んでいる。星図を守る者たちに『地動説』の愚かさを思い知らせなければならない。」
「どうします、審問官様?」一人の兵士が尋ねた。
「明け方まで待つ。」エリアスは冷静に答えた。「夜の静寂は彼らの味方だが、太陽が昇れば、彼らの隠れる場所は消える。次こそ決着をつける。」
エリアスの声には迷いがなかった。彼にとって、この戦いは星図を奪うだけではなく、教会の権威を守るための儀式のようなものだった。
一方、船では再び星図が広げられ、アナスタシアが観測を続けていた。夜空にはわずかに星々が輝き、北極星がその位置を保っている。アナスタシアの手元には、父が遺した計算式が書き込まれた星図がある。
「星は静かに動いている。」アナスタシアは小さく呟いた。「この動きが、地動説の証拠になる…。父が信じた真実を、私が完成させる。」
ナディアはそれをじっと見つめていた。彼女は星図の何がそれほど重要なのかを完全には理解していなかったが、アナスタシアの必死な姿に嘘はなかった。
「お嬢さん、あんたの言うことが正しいかどうかは分からない。」ナディアは呟くように言った。「でも、あんたの覚悟だけは本物だ。そうじゃなきゃ、こんな場所で教会に追われながら星を見ていられるはずがない。」
アナスタシアはふと顔を上げ、微笑んだ。「ありがとうございます、ナディアさん。でも、私だけの力ではどうにもなりません。みなさんがいてくれるから、私はここに立っていられる。」
その時、遠くからまた微かな足音が聞こえた。ナディアは即座に立ち上がり、短剣を手に取った。
「また来るぞ。」彼女は低い声で船員たちに告げた。「奴ら、夜明けを待つつもりなんてなさそうだな。」
船員たちは再び武器を手に取り、それぞれの配置についた。アナスタシアも星図を抱え、甲板の端に立った。
「星図は私が守ります。」アナスタシアは自分に言い聞かせるように呟いた。「どんなことがあっても…。」
ナディアは彼女を見て笑った。「守るってのはこういう時に使う言葉じゃないぜ。守りたいなら攻めろ。奴らに思い知らせてやるんだ。簡単には奪えないってな。」
森の中、再び迫り来る教会の影。入り江で守りを固める船員たち。そして星図を抱えて立ち向かう覚悟を決めたアナスタシア。戦いは激しさを増しつつあり、次の衝突が間近に迫っている。
「夜明けは近い。」エリアスは冷静に呟いた。「彼らが逃げる場所はない。」
一方、ナディアは小声で囁く。「教会だろうがなんだろうが、この船を動かせるのは私だけだ。奴らに渡すつもりはない。」
アナスタシアは星図を見つめ、決意を固めていた。「星々は私たちに真実を示している。それを止めることは誰にもできない。」
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