後編

 時刻は夜の9時近くになっていた。

 遥の型の指導は、一時間をゆうに超えている。

 一つ一つ、丁寧にミリ単位で技を修正していった。


「最後の蹴りが重要だからね。後、残心も!」

「押忍!」


 先程のことがあってか、今度ばかりは拓斗も素直に遥の言う通りにしていた。


「ヤアアアアアッ!」


 拓斗は極めの上段蹴りを放った。

 鳳翼の型の最後である。

 しかし、極めを行ったとしても油断はしてはならない。

 最後は残心と気を鎮める呼吸を持って終了とするのだ。


「フウウウゥゥゥ……」


 拓斗は平行立ちとなり、息を吐きながら、胸前でしっかりと手で十字を切る。

 道場は静寂に包まれ、聞こえる音は拓斗の荒い息遣い。

 体は汗でびっしょりと濡れている。よく動き、よく稽古した証拠である。


「うん、一先ず合格」


 遥がやっと合格を出した。

 拓斗の肩は崩れ、その場にしゃがみ込む。

 その表情は安心しきっていた。


「やっとか……」

「でも、安心しないでね。サボると忘れちゃうから、普段の自主練習が重要なんだから」

「わかってるよ」

「そうよね。たっくんは頑張り屋さんだから」


 遥は拓斗の隣に三角座りで座った。

 拓斗はチラリと横目で見ると、顔を隠すように下を向く。

 自分の顔が赤く染まったことを知られないためである。


「こうしてさ、二人でしっかりと話し合うのは何年ぶりだろうね」

「何年ぶりって……道場でも話すだろう」

「挨拶程度じゃない」

「話しにくいからなお前と……」

「そうなの?」

「館長もそうだし、師範代もそう、他の道場生や少年部のガキだってそうだ。遥の周りに自然と人が集まる――眩しいくらいの人気者、アイドルだ。そんなお前に気やすく声をかけられるかよ」


 アイドルという言葉を聞いた遥。

 それがおかしかったのか、笑い始めた。


「あははっ! 私がアイドル?」

「そうだよ、お前はアイドルだ。俺なんかが、手が届かないほどの」

「バカなこと言っちゃって――」


 遥は突然立ち上がった。


「それよりさ。たっくんはLINEとかやってるよね」

「へ?」

「教えてよ、そういえばずっと聞いてなかった」

「は?」

「ま、まさか、やってないの?」

「い、いや、そんなわけじゃないけど……」


 遥から唐突なLINE交換の申し出が、拓斗を戸惑わせた。

 これまで、二人は同じ学校、同じ道場に通う仲。

 付き合いは長いが会えば挨拶する程度。

 連絡先の交換など、踏み込んだ話はこれまで一切なかった。


「な、何のためにするんだよ」

「スマホで型を録画してさ、それを動画でLINEに送って欲しいの」

「……通信教育みたいなもんか?」

「そうなっちゃうね」


 拓斗は遥の熱心さに呆れるしかなかった。

 それと同時に嬉しくもあった。

 今、この場限りは小学生の頃に戻っている。

 何の壁もなく、遥とこうして会話をしている自分がいた。


(あっ……そうか……)


 ふと、拓斗は気が付いた。


(俺が勝手に壁を作って、嫉妬して、思い込んで……)


 全ては、自分が作り出した思い込みだった。

 一方的に遥に劣等感を感じ、自身の至らなさを転化していたのだ。


 それに比べて遥はどうだ。

 拓斗が来る前から、道場で一人、型を演じていた。

 この特別稽古は拓斗のためであり、遥の稽古ではない。

 別にする必要もないことだった。


 それはつまり、時間があれば自主練をする意識の高さを現す。

 己を律する強さ、拓斗以上に遥は努力していたのだ。

 それに対し、拓斗は努力していた、頑張っていたと思い込んでいただけ。

 相手にだけでなく、自分にも壁を作っていた。

 「俺はこの程度」であると、知らず知らずのうちに思い込んでいた。


「たっくん、どうしたの。浮かない顔して」

「ちょ、ちょっとな……」


 そうだ、変わってしまったのは自分だ。

 この「たっくん」という呼び名も、小学生の頃から変わらない。

 誰隔てなく、遥は人と接している、誰からも好かれて当然である。


 ああ、何ということだろう。

 拓斗は要約、己の過ちに気づかされた。


「ごめんな……今まで……」

「ん? 何で謝るの?」

「俺、お前のことを嫌いとか言っちまっただろ」


 遥は腰に手を当て、少し笑みを浮かべる。


「もういいよ、そのことは。それよりも、私も謝らなくちゃね」

「謝る?」

「小学生や中学生の頃は、取り留めもない話をしてきたじゃない。テレビで見たアニメや漫画の話とかさ――それが高校生になるとさ、気付けば挨拶以外、私達あんまり話さなくなったじゃない」

「そうだな。それは俺が勝手にお前に妬いて、壁を作っていたからな」

「うん。今日それを聞いてさ、私自身もっと反省しなきゃなって」

「反省?」


 しゃがみ込む拓斗を見て、遥はゆっくりと近付く。

 真正面まで来ると、遥は膝を曲げ、腰を屈める。

 視線は同じ高さ、お互いに黒い瞳を見合う。


「もっとさ、これから色んなことを話そうよ」

「お前、何を言っているんだ?」

「私、大学へ進学するんだけど。拓斗はどこに行くのかな」


 その黒い瞳を見ると吸い込まれそうになる。

 拓斗は視線を思わず逸らした。

 遥の輝きは、拓斗にとって眩しすぎたのだ。


「せ、専門学校だけど」

「何の専門学校?」

「特殊車両の学校だよ。倉庫で使うフォークリフトとかああいったやつ」

「手に職をつけるってやつか」

「わかりやすく言えば、そうなるな」


 遥は視線を逸らす、拓斗の顔側に回り込んだ。

 その距離、間合いはかなり近い。


「次は本題」


 拓斗はギョッとした表情になった。

 また、自分の顔が更に赤く染まるのを感じる。

 その恥ずかしさを紛らわすためか、拓斗は強い口調となる。


「な、なんだよ! 顔を近付けるなよ!」


 遥はお構いなしに顔の位置を変えない。

 接近戦が遥の得意分野だからだ。


「私は大学に行っても、ここを続けるつもりだけど。たっくんはどうするの?」


 進路の話だった。

 遥が有名な私立大学へ進学することは知っていた。

 それでも、この道場を辞めずに続けるらしい。

 自分はどうするか、稽古中は昇段試験の合否に関わらず辞めるつもりだった。

 それが一つの区切り、終われば学業に専念するつもりであった。

 だが、あんなことがあった後だ。


「そ、それは――」


 拓斗の回答は一つしかない。

 いや、選ばざるを得なかった。


「つ、続けます」

「あーよかった!」


 遥は満面の笑顔を浮かべる。


「今度の昇段試験。型はいいけど、組手の試験では強い黒帯さん達にボッコボコにされるだろうけど、負けずにファイトだよ!」

「お、お前な……」


 型稽古。

 武道鍛錬において、技だけでなく精神修養の要素があると言われる。

 ある高名な武道家は、その効能を三つにまとめた。


 一つ、正しい姿勢で身を整えることが出来る。

 二つ、正しい呼吸で気を鎮め、感情をコントロール出来る。

 三つ、技を正確に順次繰り出すことで、雑念を削ぎ落すことが出来る。


 型稽古の成果が出たようだ。

 それは型の上手い、下手ではない。

 拓斗が長年作り上げた壁、雑念を消したことだ。


「私に追いつき、追い越しちゃいなよ。たっくんなら絶対に出来るから」

「その呼び方――」

「ダメ?」

「今はいいよ、たっくんで……」

「ふふっ!」


 季節は夏。

 夜の道場は蒸し蒸しとしているが、一種爽やかな空気感に包まれた。

 二人は壁やしがらみのない、小学生の頃に戻っていた。

 形を変えたとしても、二人の関係はこれからも続くであろう。


(了)

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鳳翼の型 理乃碧王 @soria_0223

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